無意識日記々

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うちのドラ息子のドラム・スコア

何度聴いても『Forevermore』は凄い曲だ。聴く度に新しい発見がある、という局面に於いて凄いのは当然として、新しい発見が一つもなくてもその音楽の有機性、表現の見事さに唸ってしまう。この曲に限っていえば「美人は3日で飽きる」は大嘘である。何日眺めても、美しいものは美しい。

有機性。どの音も繋がりあってそれぞれの支えになっている。この曲が既にひとつの生命、いやさ"生態系"と言いたい。アレンジが有機的過ぎて、どこかひとつを切り出して語るのが難しい。あそこを語ればこちらも語らねばならず、こちらを語ったならそちらにも言及せねばなるまい、といった具合に延々と続いていく。キリがない。

キリがないので開き直って思いつくままに書いていこう。もうどの楽器がどうと特定して言っている場合ではないのだ。




冒頭。ストリングスとヒカルの邂逅から楽曲は始まる。厳かさ、緊張感。やや特定の音域を削ったであろうヒカルの歌声が身近に、明確な輪郭を伴って浮かび上がる。導入としての吸引力は、ドラマでこのイントロが流れてきた時によくよくわかるだろう。

『確かな足取りで〜』から『〜を呟きかけた』まではヒカルとストリングスだ。イントロだけではなくAメロまるまるである。そこからBメロに差し掛かってくるとクリス・デイヴのドラムスが唸りを上げ始める。ここで、『こればっかりは〜』の部分に至って漸く例のシンバル・ワークが炸裂し始める事に気を留めよう。

このBメロから前サビと後サビにかけてストリングスよりバンド・サウンドが優位となっていき楽曲は蠢くようなグルーヴが支配的になっていく。しかし。突如として2番のAメロに入るところでまた荘厳なストリングスが復活する。この落差が生むドラマティシズムが堪らない。聴く度にゾクゾクしてしまう。生演奏で体感したらどうなってしまうか今から怖いぜ。

そして2番のAメロになるのだが、ここではヒカルとストリングスが再び中心になりながら、クリス・デイヴが退かずに暴れまわってそのまま演奏を続けていくのが面白い。このドラムプレイの有無が1番のAメロと2番のAメロの質感の違いを生み出している。

そしてまたBメロからシンバルワークが復活するのだが、今度はタイミングが違う。1番では『あなたの代わりなんて居やしない』の次の『こればっかりは』から、即ちBメロの2節目からシンバルワークが登場していたが、2番では最初の第1節である『私の終わりなんて怖くない』のところからシンバルが嘶き始める。これは、1番と異なり、Aメロから既にドラムスが"楽曲を温めて"いたからに他ならない。よってこの楽曲は、2番になると1番よりもバンド・グルーヴに雪崩れ込む時の一気呵成感が増しているのだ。楽曲が加速する。いやはや、見事な構成力だ。頭で作ったというより曲の勢いに乗せられて自然とこういうプレイになった感が強い。クリス・デイヴ様々である。

この絶妙な"自然さ"に触れると、一体どんな順序でレコーディングをしたかが気になるところ。普通はベースとドラムスの"リズム録り"をしてからギターとキーボード、そしてストリングスを重ねて、出来上がっオケに満をじしてヒカルがヴォーカルを入れていく、という過程を経るものだが、今回は本当にそうなのだろうか? 次回その疑問に迫ってみれれば、と思う。もしライブレコーディングだったとしたら18年目にして初になるんじゃない?