無意識日記々

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『Time』は王道なのか異端なのか

『Time』はサウンドだけでなく歌詞もまた宇多田ヒカルの常道を行く。『どんな孤独にも運命にも耐えられた』だなんて歌われたら即座に『Prisoner Of Love』の『孤独でも辛くても平気だと思えた』を思い出したよね。

しかし、それでもいつもと違うぞというのはいきなり冒頭(1番のAメロの出だし)に出てくる。『彼氏にも家族にも言えないいろんなこと』だ。

機先を制してきている感じ。『彼氏』という言葉自体は『彼氏だとか彼女だとか』と『日曜の朝』に出てきているし、『家族』もこの間『Too Proud』の日本語ラップで『家族といるよりも他人といる方が気楽』という一節に出て来ていた。だが、今回は『あなた』の候補から外す為に『彼氏』と『家族』が登場しているのが異様だ。

元来ヒカルの歌詞は聴き手の感情移入に委ねようと対象を極端に絞る事を避けてきていた。だが今回は、歌の登場人物の関係性を限定しにかかってきている。それがフルコーラスになった時にどう作用しているかが見ものだろう。

勿論私は即座に百合解釈した。彼氏でも彼女でもない女ともだちにあれやこれやと悩み事を相談して…という。勿論、スタートが男性同士の同性愛で、彼氏同士だった所に異性が入ってきたセンもなくはないのだが、私は願望に忠実なのだ。百合である。

だが、あからさま過ぎる。『Prisoner Of Love』を彷彿とさせる歌詞を載せながら百合展開だなんてそのまんまやん。同性愛者を主人公にしたドラマ「ラスト・フレンズ」の主題歌だった訳だから。それで終わってくれても私としては万々歳で何の不満もないどころか非常に大満足なのだが、それでは幾ら何でも芸が無さ過ぎだと思う。

『家族』ではないことを強調する事で踏まえたいのは、まず、つまりこの歌は母親に向けた歌ではないという点だ。『Fantome』も『初恋』アルバムもどうしても母への想いが溢れ出た歌詞が多かった為、我々はヒカルが歌詞を書くとまず母親がどこかに当て嵌まらないかとあれやこれやと考えてしまう癖がついてしまっているが、今回はそれじゃないよと。『降り止まない雨に打たれて泣く私を』というのは、母を喪い悲嘆に暮れていたヒカルさんに手を差し伸べた誰かの話であってつまりやはりそれは当然ながら母親ではないという念押し。ふむ、わかりやすい。

わかりやすさ。親切設計。限定。どれもこれも、今までにない感じが溢れる。それでいてサウンドも歌詞もヒカルの常道なのだから、結構不可思議な曲なんだよね『Time』って。セルフ・パロディを潜り抜けた先でどんな遊びと笑いが待っているのか。ヒカル以外の誰が一体ここまで楽しませてくれるというのだ。あーもうリリースが待ち遠しいなーちくしょー。