週末は随分「染髪強要学校」のツイートを見た気がする。服装のみならず身体的特徴まで強要を迫れるのは単一民族国家幻想を維持できるほどに人種的偏りが大きいこの国ならではで、今が21世紀である事を忘れそうになる。
こういった話題で髪の色の是々非々をあげつらっても議論は進展しない。事をシンプルに人権問題、更には「差別」に絞るのなら話はクリアである。
「差別」の"要因"は様々である。髪や瞳や肌の色、人種、部族、国家・国籍、出身・出自・所属団体から宗教に至るまで個人をその属性をもって不正確な認識と非生産的な対応を行う現象、という感じだが本質はその要因とされる属性固有の性質ではない。差別を行う側と被る側の属する属性から構成される集団の構成数の非均衡にある。
敢えてややこしい書き方をしたが、強い方が弱い方をいじめるのが差別だ、と当たり前の事を言っているに過ぎない。染髪強要案件も、教師に権力があって生徒にはないから起こる。本当にそれだけなのである。だからこそ教師側は髪の毛の色も服装も咎められない。どちらの集団に属するかが重要であって、その判定が済んでしまえば構成員の実際に持っている属性は捨象される。
先般の地上波テレビにおける石橋貴明のコント案件も同様である。これを「差別」の文脈で捉えた時、コントの内容や性質自体は問題ではない。精神的被害があったと主張する側に較べ、「地上波テレビ」という存在が余りに影響力と権力を持ちすぎているから問題なのだ。石橋貴明が個人で配信するコントだったら問題はまるで違う場所に生まれるだろう。
例えば、私(黄色人種)がニューヨークの真ん中で白人(一応そこでは最大多数派)に向かって「この白んぼう、ウキャキャキャキャ」と嘲笑したとしてもそれは単なる侮辱であって差別とは言わない。しかし、白人の方が、先日ダルビッシュがされたように、両目を釣り上げる仕草を私に向かって放てば差別と言われるようになる。要はその行動の主体と被体がそれぞれどの属性として捉えられ、属性間に議論が成り立たない程の"極端な力の差"があるかどうかで差別と呼ばれるかどうかで決まる。
石橋貴明の問題も、フジテレビや石橋貴明といった権力・財力・影響力等々が桁外れな主体が行う行為だから差別の文脈で捉えられただけで、この極端な非対称がなければ各々がそれぞれの表現の自由と人間の尊厳を掲げて納得や妥協を引き出せるまで議論すべき問題であって、力の非対称が存在する以上、第三者が「表現に問題はない」等と発言するのはそれだけで力の非対称を利用した、民主的な議論を封殺する不適切な発言となる。言い換えれば、権力側は力が大きければ大きい程マイノリティに対して細心の配慮を求められるのであって逆ではない。権力側及びそるに与する者が、相手の主張を封殺する形で「それは問題ではない」と発言する事こそ民主的かつ文化的な相互理解と共存の福祉に反する行為であって、これこそが咎められなければならない。議論の本質を見誤らない事である。