無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

今回はグロくはないがウザったい

差別の話をすると決まって「その様な表現、何の問題もない。考え過ぎだ。」というコメントが現れる。これもまた根本的に問題を取り違えている。表現に対する解釈は差別において主要な問題ではない。既に述べたように、「差別のある社会」が先に在る事が問題だ。その社会がそこにあるから、何らかの表現が差別として捉えられるのである。

したがって、仮に被差別者に向かって「その様な表現、何の問題もない。考え過ぎだ。」と面と向かって告げる事が出来るとすれば、こう続けられる場合だけである。「なぜなら、もう世の中には差別が存在しないからだ。あなたはこれから一生、いわれのない理由で理不尽に虐げられる事は金輪際ないのですよ。」と。こう言える社会になって初めて「その様な表現、何の問題もない。考え過ぎだ。」と言えるのだ。虐げられる可能性が存在するのであれば、考え過ぎなんて事はありえない。

「悪気はなかった」とか「差別するつもりはなかった」という発言も、同様に殆どの場合無意味だ。表現は社会と反応して差別に"なる"のだから、行為主体の悪意や故意の有無は殆ど問題にならない。交通事故死を齎して「死なせるつもりはなかった」と言うのとは訳が違うのだ。この場合、無知とは真の罪である。

ベッキーの話がそういった差別問題よりも"より深刻"なのは、話が始まった段階がずっと前だからだ。まず、いち個人同士の不倫や不貞の問題を地上波テレビのような影響力が絶大なメディアで大々的に取り上げる事自体が間違っている。ダウンタウンも馬鹿ではない(というか天才ですよね)。大晦日の夜にテレビで笑いをとるにはギロチンサッカーよりタイキックの方がずっと適しているのは明らかだ。これなら笑いが取れる筈、という算段の上で企画と実践があった。そして、なぜ笑いがとれると踏んだかといえば、視聴者の多くがベッキーの境遇を知っているだろうと考えたからだ。

この話はここが難しい。ベッキー自身は「タレントとして美味しい」と思ったかもしれない(実際は思っていなかったかもしれず、もしそうなら更にぞっとするような深刻な事態なのだがその話は後回しだ)が、そうなるに至ったのは、そもそもとても正気の沙汰とは思えない過度なバッシングの時期があったからだ。つまり、間違った前提で作り出された状況において幾ら一見適切にみえる言動をとろうが本来なら結局間違いなのである。ベッキー自身もその事に気がついていない(のかもしれない)。彼女は地上波テレビ局のマッチポンプ、自作自演に基づいて蹴られたのだ。明らかに権力を使った暴力である。本来なら許される話ではない。

後回しにした方にも触れておこう。ベッキーの出したコメントが全く本音ではない可能性もある。本当は精神的にダメージを受けたが、事態を収束する為に敢えて「問題ではない」と言ったとしたら、言わされていたとしたら、これは権力による多重な人権の蹂躙である。脅迫や恐喝の類だといえる。私からみれば不倫や不貞よりずっと悪意に満ちた行動だと思えるのだが、ふむ、少し遠くまで来すぎたようだ。振り返ったら読者がごっそる減っている(気がする)。


この話はこれ位にしておこう。兎に角、皆表現の詳細に気を取られるあまり、本質的な問題を見失っているように見えたのでこんな話をした。表現が差別になるのは差別する社会が先にあるからだし、間違いに根ざして適切な判断をすればそれは間違いだし、間違いに根ざして不適切な判断をすればやはりそれも間違いである。そして、表現の自由は最優先で守るべきであり、その為に権力は表現に細心の注意を払わなければならないのである。