無意識日記々

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惑わす事が特技な僕っ娘の唄う歌

『Play A Love Song』の『僕』の話に戻ろうか。

まず前提としてこの歌では『君』と『僕』が出てくるがどの節がどちら側の視点なのかは、わからない。ヒカルはある程度は惑わせて、ある程度はわかりやすく書いているが、この歌の特別なのは『僕の言葉の裏に他意など無いよ』と先に釘を刺している点だ。これは『僕』が『君』に告げているのと同様、ヒカルが私達に告げている言葉でもある。

それを裏付けるような、追随するような節が散見される。

『悲しい話はもうたくさん』
『生い立ちのトラウマ』
『僕の親がいつからああなのか知らないけど』

これらも同様に、『僕』と『君』との対話でありつつ、ヒカルとリスナーとの対話でもある。歌を出せば必ず母親との関わりを問われる事を指して、それ自体にウンザリしている訳でもないのだが「そろそろ気分を変えよっか」とばかりに『悲しい話はもうたくさん』と言ってくる。余談だがここの『話』、何度聴いても『裸足』みたいに聞こえる。もし『悲しい裸足』だとしたらこのアルバム『初恋』収録予定の『Play A Love Song』はアルバム『First Love』に収録されている『Never Let Go』へのアンサーソングとして機能するなぁ、なんて余計な事を考えてしまうのだけども。靴を脱ぎ捨てて裸足で駆けていくのを「悲しい話」と言い切ってしまうのは違和感があるのだけれど、かといって曲調からしても別に楽しい話ではないよね、『Never Let Go』も。

その『Never Let Go』は「決して行かせない」という意味だが、『Play A Love Song』でも『Don't let go』という一節が出てくる。しかも、日本語での『どこにも行かないでよ』という直接的過ぎる程に直接的な一節を伴って。はっきり言い過ぎだろこれ。

で、ここの一節は口調から言っても『僕』というより『君』の台詞だと考えるのが妥当だ。…はて? 『僕』が歌っていた筈の歌をいつのまに『君』が? 先程触れたように、やはり「それぞれの節がどちら側の視点からの台詞なのか」は逐一考える必要が、あるようだ。

シンプルに見えて考えるべき事の多い歌だが、ここも機先を制して『僕の言葉の裏に他意など無いよ』と釘を刺されている。『考えすぎているかも?』とも。ヒカルはどこまでもわかってやっているのだ。タチの悪い事である。