無意識日記々

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1日遅れですが『DEEP RIVER』20周年祝い

昨日は『DEEP RIVER』アルバム発売20周年記念日だった。その余りのヒカルの力の出し尽くし振りに「これが最後の作品になってもおかしくないな…山口百恵コースかな?」とまで思わされた凄まじい密度だったのだが、今こうやって『BADモード』がリリースされた後に振り返ると「あぁ、確かにこの人が19歳の時の作品をだわ」みたいな醒めた見方が出来てしまうのいうのは、恐ろしいやらなんなのやら。

15~16歳の時の『First Love』アルバム時点で既に大人びていて成熟しているなぁと思わされていたのに、その後の成長は「普通」だった。それは、周りからみると際限ない天井知らずの成長と進化の連続だったが、本人からしてみたら「普通」に歳を重ねたに過ぎない。今39歳の人が「19の頃は若かったなぁ」と呟くのと同じテンションでヒカルも今「19の頃はこんなんだったんだ」って呟ける。至って、「普通」。

音楽という手段の特性か、その年齢の時にしか出せない味わいというものをその時々に放ちつつ、常に前作までの積み重ねを反映させた境地にまで至ってきたのは驚異的という他はない。『DEEP RIVER』アルバムも、その出発点は前作『Distance』アルバムのタイトルトラックの生まれ変わりである『FINAL DISTANCE』だった。未来の自分に確実にバトンを渡していく浪漫は当時も何百万人という人間を巻き込んでいったのだ。

この頃の「先の見えない全力ぶり」は、青春だなぁと私は思う。無茶で無謀。本人もこの時期を指して『思春期』と名付けていたけれど、さもありなん。今でもアルバム制作は全力だが、向こう見ずな場面はみられない。何しろ作業が終わったら家に帰ってこどもの世話をしないといけないのだから。炊事洗濯掃除、やることは山ほどある。全力を出し尽くして倒れる訳にはいかないのだ。

それは、セーブしてるというより、倒れられる時に倒れてきたから故の経験値の豊富さからきているものだ。ここまでなら大丈夫、ここから先はもうダメ、というセンが人より遥かに見えている。とは言ってるけど、今回もリリース3週間前まで歌詞が全然出来てなかったりと綱渡りなのは変わらない…というか余計酷くなってる? ギリギリを狙い過ぎ?

DEEP RIVER』の先の見えない切羽詰まった焦燥感や切迫感、やり切った達成感などは、もう今後は味わえないかもしれない。しかし、写真のスナップを挟み込んだアルバム同様、その時々の楽曲と歌詞で織り綴られた歌のアルバムも、れっきとした宇多田ヒカルの人生のアルバムなのだ。そう捉えてアルバムを“眺めて”いると、20年って、長かったような一瞬だったような、不思議な感覚に囚われる。多分、あの頃の感覚はもう味わえないどころか、思い出すことも出来なくなっていくかもしれないけれど、歌は変わらずそこに在る。自分が哲学的ゾンビになっていたとしても構わない。

今まだこの“19歳モード”を迎えていない世代、即ちこのアルバムが世に出たときまだこの世に生まれてなかった世代がこれを聴いてどう思うのやら。差し当たって、息子くんの感想は、聞いてみたいかな? 「ここにこんなパートを入れたら良かったと思うよ」とかいってまたお母さんの前で歌い出したりしていたら、また未来が感じられてとてもよさそうだ。