「ライブ・エール」での『BADモード』やその前の南青山Wall&Wallでの『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』において散々ヒカルの左手の動きの魅力について語ってきた私だが、実は今回一番印象的だったのが、そういったヒカルが歌っている時ではない、「ライブ・エール」でのメッセージ・トークの場面での左手だったのですよ。
話してるときのヒカルはマイクを持っていないから右手も自由だ。基本、ヒカルの喋るときの両手の動きは左右対称で、まぁ時々繰り返しの動きをするときに位相がちょっとズレるかなという程度。インタビュー写真でよくある定番の「ろくろを回す手」の動きが頻繁にみられる、至って普通のアクションだった。
しかし時折、ふと左手が右手をふんわりと受け止める?抱きしめてあげる場面があったのです。2、3回あったのかな? ここの場面は左右対称ではなくて、常に左手が右手を(下からというか外からというか)受け容れて支える感じになっていた。ここだけ、他の場合と違い、ヒカルにとって左手と右手の役割に明確な差があるのだ。
そこで思い出したのが2008年11月12日のこのメッセ。全文掲載しちゃおう。
***** *****
2008.11.12
Devil Inside
やべーことに気付いた。
私が描いた絵はね、老婆が入れ歯の入ったグラスを持ってるじゃん。左手で、右手を掴んでる。
「お口直し」で手前に飾ってある写真立ては、ジュエリー屋さんで一目惚れして買ったものなんだけど、店に飾ってあった時のまんまにしてあるのね、モナリザの小さな写真、なんか似合ってるなと思って。
モナリザは逆に、右手を左手の上にそっと置いてる。
最近のメッセで、私が寝ている間に右手で左手を、アザになるほど強く掴んでるっぽい、っていう話してるじゃない?(私本当に握力すごいの)
老婆とモナリザと私。つながってもうた。
老婆の絵を家に飾り出したのも最近。モナリザが入ってる写真立てを買ったのも最近。私が右手で左手を掴んでる画像をメッセに載せたのが一番最近。
はあ〜・・・なるほど・・・って感じちゃった・・・。
「判明」のメッセを書いた時ね、大岡昇平の『野火』っていう小説のことを思い出したの。13くらいん時に授業で読まされた時からすごく好きだけど、一番印象に残ってたのは、主人公の田村が、左手を右手で掴んで死んだ仲間の肉を食べようとする自分を必死に抑制する、っていう場面だったの。(たしか・・・)
大岡昇平はキリスト教のモチーフをよく使うけど、左手が悪魔や苦しみの象徴で、右手が救いや神を象徴する、っていうのは、聖書にもコーランにも共通する考えなの。(他の宗教もあるかも)
科学的にも、左脳(右手)は理性、右脳(左手)は感情とか、っていうふうに言われてるでしょ。昔の人たちは直感的に、そんなこともう分かってたんだよね。
ちょっと難しい話になっちゃったけど、要するに、私が無意識の時に右手で左手を強く掴んでるのは、もしかしたら、私の中の悪魔を、私の中の神が、押さえ込もうと格闘してる現れなのかな、って思わされたわけっす。
悪魔は悪いやつじゃないと思うんだけどね(笑)
っつかむしろ私が理性的に閉じ込めてる、心の奥底からの訴えを、聞いてあげないといけない時なんだろうね。
ちょー納得。
なんか安心した(笑)
https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_13.html
***** *****
『私の描いた絵』は同じページで見られるこれだね。
https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/img/2008111201283j.jpg
そうなのだ、14年前のヒカルの左手は、暴れる右手を押さえつける役割だったのだ。それが今、2022年に至って、闊達だが礼儀正しい右手を左手が優しく包み込んでいるように視えたのさ。私には。単なる偶発的な出来事に過ぎないのかもしれないが、昔はいがみ合っていたヒカルの中の神様と悪魔様が今は和解して寄り添い合っているのだとしたら、こんなにほっこりすることはない。昔から全宇宙を突き抜けるほど優しみに溢れ切った人だが、なんだか今はもうその左手で宇宙2つ分くらい受け止めてくれそうな。もう何言ってんだかよくわかんないけど、NHKに出てるときの髪形がすわボーイッシュかというくらい幼くも見える感じだったのに、そこにあった母性はなんだか仏様みたいでな。嗚呼今の宇多田ヒカルはこんなとこに居るのかと無闇に感動してしまったのでした、という話でしたとさ。
今も悪夢をみるのかな、ヒカルは。ダヌくんが悪夢を見て泣いて起きてきたときに優しく受け止めててくれてそうで、それがもう羨ましいを総て通り越して果てしなく尊いわ。妄想だけどさっ。