無意識日記々

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電気と電子:音を増やすか生むかの差


前に話した「エレクトリック(電気的)」と「エレクトロニック(電子的)」の違いについて、もう少し補足しておこうかな。



非常に主観的な印象だが「Electric/エレクトリック/電気」というのは、どちらかというと「人間味やあたたかみがある」というニュアンスで捉えられがち…というか、「Electronic/エレクトロニック/電子」のもつ「冷たい/やたら正確で迅速/非人間的」といったイメージとの対比で、そんな風に受け取られる機会が多い。そういう場合エレクトリックとエレクトロニックは、類義語というより対義語として捉えられている。


文系の人間からすればどっちも電気仕掛けの機械でしょとなりそうなところなのだが、音楽リスナーにとってもともと電気ってのは「生身の音の音量をを大きくする為のもの」だったのだ。つまりスピーカーやPAであり、小さい音しか鳴らせないアコースティック・ギターに繋いで爆音にするピックアップやアンプであり、歌手にとってのマイクや拡声器なのだった。ラジオやレコードプレイヤーも含めて、「エレクトリック/電気的な仕掛け」は、人間の出す音(楽器の演奏や歌声)を遠くに運ぶ為のものだったのだ。


一方、「エレクトロニック/電子的」というのは、音そのものを電気によって作り出す事が念頭に置かれている。所謂音声合成シンセサイザーである。シンセにもアナログあるやんとかプログレリスナーとしては色々言いたいこともあるんだけど今回そういうのは総て端折るとして、つまり、「人のいないところから音が出てくる/音楽が生まれてくる」というのが、エレクトロニック・ミュージック/電子音楽の特徴なのであった。それは例えば、電源を入れないと鍵盤を叩いたとしても何の音も出ないエレクトーンであったり、逆に手をかざすだけで他に何もしていないのにメロディを奏で始めるテルミンであったり幾つかのケースがあるのだが、こちらのイメージを突き詰めていくとロボットや人工知能によって音楽が生まれる世界観の方に近寄っていく。もう最近は生成AIのお陰ですっかり身近な話題になりましたかねそういうのは。


今回の宇多田ヒカルの新曲の曲名は『Electricity』。電子/エレクトロニックではない、電気/エレクトリックの方の名詞形エレクトリシティだ。つまり、旧来の音楽リスナーの感覚からすると、生身の人間から出た音をこちらまで届ける為に使う電気のことを指すのだろうという見立てを立てたくなる。或いは、辞書にもあるように衝撃的な感情、電気ショックのような興奮の方も指すかもしれない。しかし何れにせよそれは人間的で、熱さや体温が感じられる感覚が前面に出てくることになるだろう。


ただ、既に沢山の人が期待を寄せている通り、特に英語圏では(というか私ゃ日本語圏と英語圏しか読めないから他は知らないのだった…今はすぐ翻訳してくれるんだから選り好みしなくていいのにねぇ.頭が古いねぇ…)、宇多田ヒカルの音楽は「エレクトロニカ」のジャンルに当て嵌まるものとして受け容れられている。なのでエレクトロニックバリバリのサウンド=非人間的で機械的な音色で来るんじゃないかと期待されるわよね。となると、もうここから先は、ヒカルの言葉のセンスに任せる事になる。『traveling』の『狙い通り』は“ネライ・ストリート”のつもりだった、とか何とか言い始める非常に独特の語感を持った人だ。「エレクトリシティ」という単語にも、何か独自の解釈を付け加えてくれているかもしれない。それはそれで楽しみだわね。


まとめておこう。


「Electricity/エレクトリシティ/エレクトリック/電気的」とは、旧来からの音楽リスナーにとっては、生身の人間の出す熱くて揺らめいてる音をでっかくして遠くに届ける為の手段、というイメージ。


「Electron/Electronic/エレクトロニック/電子的」とは、人間ではない所・人間的ではない所から奏でられる音楽に対して使う、というイメージ。


という風。勿論、英語圏の人々も様々で、ミュージシャンであっても上記の二つを混同してる人は珍しくなさそうに思うので、取り敢えず手堅い解説を今回は書いたけど、もっとフレキシブルに解釈していっていいと思うよ。ヒカルもそれを望むかも、しれませぬ。