無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

今後想定され得る装丁の方向性

数週間や数ヶ月に一度だけ呟いてまた引っ込む、ってどんな感じなんだろ。普段は呟きはしませんが読むのは読んでますよ、っていうアピールなんだろうか。ニース風サラダっていうのね。ふーん。

ネットから離れた生活を送る贅沢もどこかの時点で満喫したのかな。水を汲みに川まで桶を運んでいく生活を今更送りたくないのと同様に、ネットのない生活を送ってみるのは電気もガスも水道も遮断してキャンプを張るような、まぁ娯楽的要素の強い話にはなるだろう。

元々ヒカル本人はそんなに新しいモノ好きでもない。電子書籍が検討されだした頃も「紙の本がいい」と言い切っていた人だ。気にしない私からすれば「両方使えばいいじゃない」だけだったのだが、今のヒカルは電子書籍を使っているのだろうか。本の手触りや匂いも含めた"読書体験の質"にこだわるなら紙の本の方が言うまでもなく相応しい。そのこだわりっていつまで続くのかな。結局、そういう風にして読みたいと思える本が新しく出版されるかどうかにかかってると思うんだが。

それを言ったら、ヒカルのCDの装丁の味気なさは何だったんだろうか。幾らでもブックレットに凝れた筈なのに、歌詞とクレジットが淡々と載せられているだけ。Single Collection Vol.2で漸く装丁に参加するようになったが、まだまだだろう。しかし確かに、邦楽CDの味気なさはそれが主流だったのであり、ULTRA BLUEの歌詞カードの程度であっても「随分と工夫された歌詞カードだな」と評価をされたのである。

本の重みや手触りや匂いまで含めての読書体験だというのなら、音楽鑑賞のセッティングにも同じかそれ以上にこだわってもよかったはずなのになかなかそういう流れにならなかったのは、つまりヒカルにとって音楽を聴くのはもっと気軽なものであり、ipodに放り込んで後は音を聴くだけ、みたいな風に使うのが標準なのかもしれない。

SCv2で少し潮目が変わったのは、点線を編集した経験も多少影響があったのだろうか。編集長として、フォントや紙質といった部分でこだわりを発揮した。それをそのままCDのジャケット制作の局面でも応用した、と。ずっと読者だった人間が編集長に就き読者視点から装丁を整備したように、音楽制作からいったん離れた状態でいちリスナーとして音楽に接する時間が幾らか確保できたというのなら、次のリリースの体裁でそれが活かされるかもしれない。あっちからもこっちからも見てみる事ってやっぱ大事なんだよねぇ。