でその、『First Love』よりも重く構えて歌った『誰かの願いが叶うころ』。数多ある宇多田バラード名曲群の中で何故これが選ばれたかといえば、やはり世界情勢を反映したかったからだろうなと、2024年という時期を考えれば推測してしまうところ。
何しろそもそもこの歌を提供した映画「CASSHERN」(2004年公開)自体、紀里谷和明監督曰く「絶えず世界のどこかで戦いが行われている。何故戦いはなくならないのか自分なりの考えを表現したい。」というコンセプトの許で作られた作品なので、戦争の色が濃く映し出されるのは自然な流れではある。
https://eiga.com/news/20030909/9/
ヒカルはあまり戦争をテーマにした作詞をしない。戦争どころか争い事や奪い合いの話も少ない。浮気をしたとしても一夜限りで略奪愛には発展しないし(『One Night Magic』)、貢いだ男には逃げられるし(『Taking My Money Back』)、人と競ったり争ったりするのを避けてすらいる。わざわざ敢えて『世の中基本は弱肉強食』と歌う(『虹色バス』)のも、普段その世界観とは異なる感情や感覚を謳っているからだ。
そんな中で、かなり真正面から戦争を歌ったものといえば『あなた』に出てくる
『戦争の始まりを知らせる放送も
アクティビストの足音も届かない
この部屋にいたい もう少し』
だろうか。それでもやっぱり、いずれは否応無く巻き込まれていくかもしれないけれど今だけでも戦争の世界からは逃れていたいという気持ちがここには描かれている。
これらをみると『誰かの音が叶うころ』は実に異質である。だが、争い事そのものや、そこで勝ち抜く事を歌った歌ではなく、諍いがこじれた後の哀しみにフォーカスしている所がやっぱりヒカルさん。20年前の歌も今もそこらへんの着眼点は変わらない。
ただ、この、若い頃(二十歳前後)の歌詞というのは『傷つけさせてよ 直してみせるよ』(『For You』)や『傷つき易いままオトナになったっていいじゃないか』(『タイム・リミット』)のようにこれから被る恐れのある傷を描いたり、『ひとことでこんなにも傷つく君は孤独を教えてくれる』(『DISTANCE 』/『FINAL DISTANCE』)のように傷ついた時の感情を歌ったりするのが主体だった。そこに、傷ついた後の感情を、しかも第三者のもの(『あの子が泣いてるよ』)を交えて歌っているのが『誰かの願いが叶うころ』の特徴だ。曲作りに於いて歌詞から作り始めたというのも、もしかしたらこの“傷”に対するアプローチの順序がいつもとは逆だったからなのかもしれない。
『SCIENCE FICTION TOUR 2024』のステージ前半のパートをヒカルは、その『傷』をテーマにした初期の曲を立て続けに演奏して過去と向き合いつつもこの『誰かの願いが叶うころ』でしめやかに締め括った。『あなた』で戦争に触れたのも、実の息子が将来そんなものに巻き込まれていかないようにどうか少しでも平和が実現して欲しいとの願いが込められていたからなのだろうが、過去に負った、自らに負わせた傷と向き合う事と、世の中に久しく絶える事のない戦争の傷跡を見つめる事が、『誰かの願いが叶うころ』でちょうど交わったのかもしれない。だからこそ、世界への想いと過去の自分への想い(洗濯してたら泣いちゃうくらいの、ね)が重なるこの歌が、公演の重点として歌われたのだと思われる。この歌の中で泣いてる『あの子』のひとりは、間違いなくいつかの宇多田ヒカルなのだった。