無意識日記々

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ハッタリとリアリティ

実写版キングダムは「外連味で押し切るタイプ」と書いた。まずはこれを踏まえる必要がある。

外連味:けれんみ。はったりを利かせたりごまかしたりするようなところ。

辞書にはこう書いてある。戦争を題材にした娯楽作品を作るときにリアリティを追究してはいけない。勿論、「火垂るの墓」のようにシリアスに戦争の真実を描く目的ならそれでいいのだけど、キングダムはそういう目的で作られてはいない。現実の戦争の中で、派手で見栄えがして人目を引くような要素を抽出して合成して映像を作る。何より、場面々々を演出する音楽をふんだんに使用する。現実にはBGMなんて無いのだ。人の首が斬られて飛ぶのは劇的な悲劇ではなくただの転がる事実なのである。路傍の石と変わらない。そうして作り上げた虚構の迫力で観客を魅了するのが娯楽作品というものであって、それを演出上徹底したのがこのキングダム・シリーズだ。キャスティングの妙やしっかりしたストーリーの原作に加え、この演出方針の徹底が今シリーズの興行的成功の要因だと分析するのは妥当だろう。リアリティの対極のハッタリで画面を埋め尽くして観客を楽しませる。「外連味で押し切る」作風とはそこの所を指している。

他方、宇多田ヒカルが戦争について描写するとすればどうするか。

@utadahikaru : 私の涙が乾くころ あの子が泣いてるよ/このまま僕らの地面は乾かない 誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ/みんなの願いは同時には叶わない 『誰かの願いが叶うころ

posted at 2012/8/15 14:39

https://twitter.com/utadahikaru/status/235611677536702464

11年前の終戦記念日のツイートの一部だ。『誰かの願いが叶うころ』の歌詞は、栄光の裏には必ず影があることを示唆している。勝者が居れば必ず敗者が存在する。バッター大谷翔平がホームランを打ったときには必ず打たれたピッチャーが存在するのだ。単なる真実なのだが、戦争娯楽映画では殆どの敗者がモブキャラクターとして画面の外にすっ飛んでいくだけである。内臓を抉られて苦しみのたうち回り絶望のうちに死んでいく姿を実時間に合わせて何十分何時間もかけて描写したりはしない。実写版キングダムはそういう映画なのだからそれでいい。

宇多田ヒカルInstagramといえば落とし物写真とファンでない人も知っている。「よくそんな所にまで目が届くわね」というモノに目を向ける性格は、最早公私問わずヒカルのアイデンティティのひとつとなっている。そんなひかるが戦争について歌うなら、上記の『誰かの願いが叶うころ』のように、勝者の栄光の陰に隠れて負けて悲しみ苦しむ敗者の姿にもスポットを当てるだろう。実写版キングダムではあまり触れられなかった部分を事細かに描写するだろう。

そんなキングダムと宇多田ヒカルが、真正面からコラボレーションしてうまくいくはずがない、のだ本来ならば。それが現実は、キングダムファンからも絶賛される主題歌の提供となった。異様だよね。次回以降も引き続きそのポイントについて探っていきますよ。