無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

料理の仕方と期待される味(の話はまた来週)


まだ整理ついてないんだけど書いてみるか。



そもそもヒカルさんは「作る人」を応援したがってきた人だ。なりくんをプロデュースしたのもそうだし、細かいことを言えば杏さんと餃子を作ったのもそう。くまのぬり絵二万枚以上全部審査したのだってそう。大小規模に関わらず、クリエイティブに対して好意的なのよ。自分がついついなんか作っちゃう方だからなんだろうけど。


昨年のトレボヘなんか聴いてたら、やっぱり音楽に限らずアート全般、クリエイティブ全般に興味があるように思われるのね。インタビューで「音楽も言語の一つ」と相対的な俯瞰で発言してるのも、モノ作りはどれも似たようなもんと捉えてるからじゃないかな。自分はたまたま音楽家になったけど、と。


そんな中で写真家を9人(以上)起用して「自分を撮らせる」のって、どういう位置付けなのか。ここがまだ不明なのよね。


他の人で、主役を決めて複数のクリエイターに料理をして貰うという企画は幾らでもあるだろう。その場合、主役さんを輝かせて欲しいという要望がメインにはなりそう。どれだけ素材を活かせるか、っていう。


一方、ヒカルさんはどちらかというと裏方志向なので、もし自分より自分の書いた曲をよく歌える歌手が出現したらあっさり全部任せちゃいそうな雰囲気だ。まぁそんな人は現実には在り得ないんだけど。そのヒカルさんの無私っぷりを慮ると、「自分の容姿、写真は単なる素材で構わない。それキッカケでいい作品が出来れば問題ない。」という態度で今回居そう、という推測はしたくなる。


ここでファンの感想が分かれそうなのよね。仮に、


「これ、被写体が宇多田ヒカルでなくてもよかっんじゃ?」


という作品があったときに、


「いい写真が観れたからそれでいい」


と捉えるか、


「やっぱり宇多田ヒカルの魅力を引き出して欲しかった」


と捉えるか。


ここのところでどのような比率になるかが争点になりそうなんだけど、今までの宇多田ヒカルのファン層のカラーを考慮すると圧倒的に後者が多そうなのよ。


そこで思い出すのが2013年のカバーアルバム『宇多田ヒカルのうた』なんだけど(上記の

「主役を決めて複数のクリエイターに料理をして貰うという企画」の一種だね)、これ、評判自体は悪くないんだけど(寧ろかなり良い)、ファンの間で全くと言っていいほど話に上がらないのよ。興味ないの、宇多田ヒカルが歌ってない歌には。幾ら宇多田ヒカルが書いた曲であっても、ヒカルが歌ってなかったら興味を示されない。それくらいヒカルの歌声であることは、長年支持してきているファンの大多数にとっては重要なことだった。ここらへん、私はマイノリティになるわね。このアルバム好きだからね。


これ、対象が写真になるとどうなるかなと。宇多田ヒカルがちゃんと真正面から写ってないと、幾らアートとしてのクォリティが高くても興味持って貰えないのではないかな? そう予想した場合、ここから発売日までのプロモーション方法をちょっとみてみたいのよね。今までのメインの宇多田ヒカルファン層に訴求するのを諦めて、アートに敏感な層にシフトするとか、各写真家さんたちの支持者さんにアピールするとか、そこらへんどうしてくるかなと。



まぁまだこちらも情報も心境も整理出来てないんだけど、これだけの金額で商売する以上、どんな人に売るかはかなり熟考する必要が出てくるかなといったところですまた来週。