無意識日記々

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既に在る物を愛でる前に期待や願望のお掃除を。

そういや先日@u3musicアカウントがスタッフツイートをRTしていたな。照實さんが元気だというアピールならいいのだが。

でそのスタッフツイートの方だが今日は琉球沖縄放送の番組に食いついてた方は取り敢えず頭の片隅に残しておくとして、英語ツイートの方に注目しよう。「浪漫と算盤 LDN Ver.」のことを“The Sun&moon in London”と書いているのだ。えらく大胆な読み替えだね。これが海外でのタイトルなのだろうか。算盤無い国もあるかもだし、太陽と月のない国は地底とか海底とかだもんな。

これをどう読むかより前に、これをファンに見せて何らかの示唆を与える気であろう事から何をどう読み取るか、ですわね。椎名林檎ベスト・アルバムの楽曲はこれで総て出揃ったようなので浪漫算盤の別バージョンが収録される訳でもないのだろうに、なにゆえ「東京バージョン」の存在を斯様に匂わすのか? いちばん大胆なのはその「東京バージョン」を東京オリンピックの開会式で初披露する事だが流石に飛躍し過ぎというかちょっと遠いよね。皆に喜ばれるかというと微妙だし。暑いしな7月下旬。照實さんと三宅さんの誕生日をお祝いする方が先だろう。

或いは主客逆転であろうか。次は「宇多田ヒカル椎名林檎」即ち「Utada Hikaru & Ringo Sheena」とかで「The Moon&Sun in Tokyo」を歌う。ヒカルの側つまりEPIC SONYからのリリース。そうなるとちょっと面白いけど、なんか回りくどいな。普通に『二時間だけのバカンス』の続編やった方がまだいい気がする。

まぁここらへんはこちらが椎名林檎の手法に慣れてないというかてんで知らないから歯切れのいい話が出来ないだけで、林檎ファンの皆さんはきっと色々と予想しているのだろう。その前にこの2人でのテレビ出演はないのかねぇ。

それらを総て放っておいて、『Hikaru Utada in London』&『Utada Hikaru in Tokyo』という枠組みが現れるなら興味津々だ。今のところ「浪漫と算盤」がアビーロード・スタジオでロンドン・フィルの演奏を賜ったという意味以上には捉えられていない。だが我々の方からすれば、ヒカルがロンドンと東京で名義を変えるとかそんな話をし始めるとすると、何やら昔の談義が再燃してくる。"Hikaru Utada"と"Utada Hikaru"の使い分けを十数年前に最初に持ち出したのはヒカルと照實さんだからね。またそのつもりになったのかとすわ盛り上がってしまうのだ。

うん、何れも時期尚早だね。予想や願望や期待は幾らでも出てくるけれど、取り敢えず次回は「既に提示されたもの」を題材にするペースに戻っておくとしましょうか。

Hikaru Eye

ついこの間まで渇望感云々言ってたのにネタを投下してくるときは立て続けだねぇ。今ファンは少年時代をチェックして浪漫と算盤をチェックしてNetflix入ってる人はクィア・アイまでチェックしてとあれやこれやと忙しい。捻くれて全部無視してやろうかという謎な気分になりそう。今まで放置しといていきなりプレゼント攻勢!?そんなので許して貰えると思ってんの??みたいな気分なのだろうか。ちと意味が分かりませんね。

でも「ヒカルからのメッセージ」ということでいちばん打ち出しが強いのは「クィア・アイ」だったりしそうでな。少年時代も浪漫算盤も結局井上陽水椎名林檎の曲でしかなくそこにヒカルの主張なり何なりを見出すのは難しい。歌唱法が云々とか椎名林檎から見た宇多田ヒカルを通して見た宇多田ヒカルの云々とか言い始めれば何とかなるかもだがややわざとらしい。

その中で特定の番組について語るというのはどれだけ他意が無かろうがやっぱり個人としての主張はある訳でな。『Laughter In The Dark Tour 2018』映像商品を配信してるNetflixということで宣伝しても不自然じゃないしうまいとこにハマったもんで。

そういや昨日のタイムラインで誰かの興味深い一言があったな。いいねもリツイートもせずに流してしまったが「今の日本でみられるフェミニズムに対する攻撃は30~40年前に欧米で起こったものに酷似していて既視感を覚える」みたいな内容だったか。つまりその分野では日本は他の先進国より30~40年遅れてるのね。今からそこから30~40年進めるかどうかはわからないが、だとすると、クィア・アイみたいな番組が日本に出張してきたのは、いやこの番組はフェミニズムと直接関連がある訳じゃないんだろうけど、浦島太郎状態というか、随分ギャップのあることなのかもしれない。

ヒカルは今回英語でツイートした。まだ私は番組をチェックできていないので推測でしかないが、(日本語民からみて)海外の人達に日本の現状のようなものを知ってもらおう、という意図がはたらいたのかもしれない。或いは、日本語でツイートすると日本語民に対して押し付けがましくとられるかもという危惧がはたらいたのかもしれない。或いは純粋に、英語圏の中では日本ミニシリーズが宣伝されてないから私がと思ったのかもしれない。Instagramのタグに#queereyeとともに#utadahikaruと#Hikaruutadaを添えたのも何らかの新局面を表しているかもわからない。余談だが浪漫算盤のクレジット、椎名林檎が"Sheena Ringo"なのに対してヒカルは"Hikaru Utada"なのよね。2人で姓名順が逆。まぁそれは今はいいか。

観られる環境にある人は、だから、「クィア・アイ」を観ておいた方がいいんじゃないだろうか。Netflixに迷っていた人は丁度いい渡りに船かもしれないし。取り敢えず日本ミニシリーズ4話全部観れるようになる状態なり時期なりを見定めてログインした方がいいのかな? あたしまだそこらへん調べてないので、なにか気がついたらまた書きますね。

白と黒、太陽と月の話。

「浪漫と算盤」で最初に椎名林檎を太陽&ヒカルを月と見立てたのは、恐らくそれが最初にリスナーが取るべき態度だと思ったからだ。まずは制作者の意図に乗ってみようという訳である。

同曲のミュージック・ビデオのラストにそれぞれの対比が並べて&続けて現れる。そもそも立ち位置が左林檎に右ヒカルだ。そして字幕が「浪漫と算盤」と出て「The sun & moon」が重なる。更に次は「Sheena Ringo/Hikaru Utada」と続く。

これを観たリスナーは画面左側の椎名林檎と「浪漫」と「sun」と「Sheena Ringo」を関連付け、画面右側のヒカルと「算盤」と「moon」と「Hikaru Utada」をやはり関連付ける。それが自然だ。例えそれが本当の真実でないとしても作り手側がその様な印象を与えたい意志があることは明らかだろう。であるからまずはゆみちんを太陽、ひかるちんを月と解釈するのが妥当&穏当なのだ。

しかしそれは「まずは」に過ぎない。そう“明示”されている訳ではないのだから。そこから先はリスナーに委ねられている。もしかしたらそうであるかもしれないしそうではないのかもしれない。ここから先は正誤や真偽より「より面白い解釈」や「より整合的な説明」を持ち出せるかが興味の対象になるだろう。そして更にここでは、

「林檎=太陽 & ヒカル=月」

「林檎=月 & ヒカル=太陽」

この二つのどちらかというのに加えて

「どちらが月でどちらが太陽かは場面々々で入れ替わる。つまり、林檎とヒカル、どちらも太陽であり月なのだ。」

という解釈も挙げておくべきだろう。入れ替わりは一度かもしれないしもっとあるかもわからない。或いは二人とも常に「太陽でもあり月でもある存在」なのかもわからない。「白と黒」という対比は、コメント欄でも指摘があったように、直接的に太陽と月を指す必要も無いのだ。月って必ず黒い訳じゃないし、太陽だって白色光の根源とはいえ夕陽は赤かったりする。そこはもっと解釈の幅があるべきだろう。

そういった事を踏まえてこの「白と黒」「椎名林檎宇多田ヒカル」「浪漫と算盤」「The sun & moon」「Sheena Ringo/Hikaru Utada」の対比について考えてみたい──のだが、果たして次回はどうなりますやら毎度の事ながら自分でもよくわかりませんっ。

「クイア・アイ」(訳:“ゲイ目線”)

『kuma_power : I can’t believe my favorite show on Netflix @queereye did a mini series in Japan and THEY DIDN’T TELL ME ABOUT IT 』

おや朝も早よからインスタ更新か。『ネトフリの人気シリーズクイアアイの日本シリーズが配信されてたのに誰も教えてくれないなんて信じられない』みたいなことか。ロンドンとの時差は9時間だから深夜のカウチポテト(言い方が昭和だなぁ)ですわね。

〔「クィア・アイ/Queer Eye」は各分野のプロフェッショナル5人のゲイ男性「ファブ5」が一般人のファッションやライフスタイルを改造する、大人気リアリティ番組。〕

とのことで。はぁ。そういや普段疑問に思ってなかったけど性の多様性に理解のあるHikkiのファンでありながら例えば同性婚反対の政策を支持してる人はどう折り合いを付けてるんだろうか。それはそれこれはこれ、って言っちゃえばOKではあるけれど歌詞世界の基本が性別や近親の入換で出来ているので根本的な居心地の悪さみたいなもんはないのかな。

ポップソングでいちいち性的指向を云々してたらキリがない、のはそうだ。QUEENのファンはみんなゲイなのかとか極論に走ってしまう。そういうのは厨2くらいで卒業して頂くとすれば、良いと思う所でいい距離を保ててれば済む話か。

だがここを読みに来るような病的なファンの場合はどうなるんかな。あたしなんかは寛容云々以前に自分にふりかかりようもない政策なんぞ無関心に近いのだが、政治というのはしばしばお金を持ってる暇な人達によって大きく動かされたりするからねぇ。御愁傷様ですとか言っておこうかしらん。

世情がまだまだなのはわかる。↑の番組説明をみてもわざわざ「ゲイ男性」と「一般人」が対比されていて、そこに番組の主眼があるように見受けられる。過渡期と言ってしまえばそれまでだしその為の番組なんだろうが、ふむ、なるほどね、それを今ヒカルが、わざわざ、リプ欄に「第二弾回答はまだですか?」と吊るされる気まずさも厭わずにインスタ&ツイートした意図だわね。あたしもちょっと番組観てみた方がいいのかもしんないね。

そうやってNetflixに誘導することで自分のライブも見て貰いたいってことなんじゃないのと陰口を叩かれるリスクもまたあるんだろうな。書いてあるメッセージが冗談めかしてあるから油断してたけど、案外観測気球としての意図はシリアスなツイートなのかもね。

Midnight Madness of Yuri Dancing

百合男子目線からすればですね、という話の途中でしたな。

今更なんだけどヒカルちん、ゆみちんと結婚できればよかったのにねって。同性婚が許されていない国なので仕方が無いけれど、二人が結婚していればあらゆることが丸く収まっていた気がする。

結婚って特段性的な関係が必要な訳では無いだろう。生殖が目的でなければ尚更だ。ただひたすらに、お互いが伴侶であると社会的に宣言できるのが大きいのだろうなと。ならば椎名林檎宇多田ヒカルが夫婦であると宣言できればこれは日本でも最強の、世界でも有数の傑出した音楽家カップルになってただろうなと。

ヒカルが離婚しているというのは一応確定情報として扱っていていいんだろうか。ならチャンスはあると思いたかったが一方のゆみちんの方は旦那様と今もって仲睦まじく今回の「浪漫と算盤」のミュージック・ビデオも彼の手によるもの。全く甚だしく妬ましい。

という怨念を胸に秘めて語る百合男子目線の話だ。心して聞くように。(つまりとても歪んでいるからまともに聞いちゃダメってことです)

今回のミュージック・ビデオ、何が問題って二人が決定的に見つめ合ってると確信できる場面がひとつも出てこないのだ。それぞれのカメラ目線のカットでは確かに相手を睨みつけ微笑みかけているようにもみえるが、果たしてその時相手も同じようにこちらを見て睨み返し微笑み返しているのだろうか。ひとつとして明らかではない。二人の横顔からのショットでも目線が絡み合いそうで絡まない。結果百合目線で最も美味しい「二人がお互いを見つめ合うシーン」がこのビデオにはない。本当にもどかしい。

これは旦那の陰謀なのではないだろうか。二人が見つめ合うショットを撮ってしまうと世界中に「椎名林檎×宇多田ヒカル」のカップリングがベスト・カップルなんだと知らしめてしまう結果となる。旦那としてはそれは面白くないどころかヒカルに嫁を寝盗られてしまうのではないかという疑心暗鬼まで生んでしまう。根も葉もない疑惑なのだがファインダー越しに覗くヒカルの表情にこれは落とされない訳が無いという確信が強まってしまい結果ゆみちんとヒカルちんはミュージック・ビデオの中ですらすれ違いのまま終えるように仕向けられてしまったのだ。男の嫉妬ってみっともないねぇ本当に。

……って、なんか今のセリフ、真っ先に自分自身に刺さったよ……。

という訳で椎名林檎の旦那の嫉妬がきっとタップリな「浪漫と算盤」のミュージックビデオ、皆さん今宵もたんまりと堪能してくださいなっと──あれ?もう誰も起きてないってか。それは失礼致しました。いやまぁ、深夜でないとこのノリでは日記は書けませんのですじゃ…(笑)。