「浪漫と算盤」で最初に椎名林檎を太陽&ヒカルを月と見立てたのは、恐らくそれが最初にリスナーが取るべき態度だと思ったからだ。まずは制作者の意図に乗ってみようという訳である。
同曲のミュージック・ビデオのラストにそれぞれの対比が並べて&続けて現れる。そもそも立ち位置が左林檎に右ヒカルだ。そして字幕が「浪漫と算盤」と出て「The sun & moon」が重なる。更に次は「Sheena Ringo/Hikaru Utada」と続く。
これを観たリスナーは画面左側の椎名林檎と「浪漫」と「sun」と「Sheena Ringo」を関連付け、画面右側のヒカルと「算盤」と「moon」と「Hikaru Utada」をやはり関連付ける。それが自然だ。例えそれが本当の真実でないとしても作り手側がその様な印象を与えたい意志があることは明らかだろう。であるからまずはゆみちんを太陽、ひかるちんを月と解釈するのが妥当&穏当なのだ。
しかしそれは「まずは」に過ぎない。そう“明示”されている訳ではないのだから。そこから先はリスナーに委ねられている。もしかしたらそうであるかもしれないしそうではないのかもしれない。ここから先は正誤や真偽より「より面白い解釈」や「より整合的な説明」を持ち出せるかが興味の対象になるだろう。そして更にここでは、
「林檎=太陽 & ヒカル=月」
「林檎=月 & ヒカル=太陽」
この二つのどちらかというのに加えて
「どちらが月でどちらが太陽かは場面々々で入れ替わる。つまり、林檎とヒカル、どちらも太陽であり月なのだ。」
という解釈も挙げておくべきだろう。入れ替わりは一度かもしれないしもっとあるかもわからない。或いは二人とも常に「太陽でもあり月でもある存在」なのかもわからない。「白と黒」という対比は、コメント欄でも指摘があったように、直接的に太陽と月を指す必要も無いのだ。月って必ず黒い訳じゃないし、太陽だって白色光の根源とはいえ夕陽は赤かったりする。そこはもっと解釈の幅があるべきだろう。
そういった事を踏まえてこの「白と黒」「椎名林檎と宇多田ヒカル」「浪漫と算盤」「The sun & moon」「Sheena Ringo/Hikaru Utada」の対比について考えてみたい──のだが、果たして次回はどうなりますやら毎度の事ながら自分でもよくわかりませんっ。