無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

bitter sweet tweets

昨日のツイートは『地メロの3度下のラインを丁寧にダビングしてます』に尽きると思う訳だが、やはりどんな時でもセンスオブユーモアは必要だ。想像を絶する大惨事に巻き込まれた人にすぐ笑ってもらおうったって至極難しいし、泣きたい時は泣けるだけ泣いとくべきだから泣くのだが、そういう絶望の中で笑って貰うのは"難しい"というだけで"不必要"とは違う。そういう人々だっていつかは心から笑いたいのだ。勿論、悲劇を忘れる必要もない。伊集院光が(なんか光違い)「笑いと悲しみって実はいっぺんに同居できるんじゃねーの?」と慧眼な事を言っていたけれど、どちらかの感情行動を竦ませることはない。ただ高いセンスがいつもより要求されるから難しい、というだけである。自粛ムードの中要らないと言われてしまうのは平時の「鍛えられていないセンスオブユーモア」であって、鍛え上げられたユーモアはそのムードさえ打ち破れるだろう。

光にとって(こちらは光違わくない)、こういう時に自分がどういう発言をすべきなのか、或いは表立っては何も考えずにほぼ本能的に発言しているのか、ちょっと具合がわからないが、普段から人より図抜けてシリアスで、それを補完するようにセンスオブユーモアを鍛えてきた人間としては、このシリアスな状況によってまた自らの心の制御を保つ為の笑いの要素を少しずつ何処かからか見つけてくるかと思ったり思わなかったり(どっちなんだ)。

57万ものフォロワーを抱えていて、その発言は大きな波のうねりとなって(という比喩を使うのすら一瞬躊躇ってしまうこの自粛ムード)各所に影響を及ぼすのだが、波は結局大海に飲み込まれ雲散霧消してしまう。その中で一定の方向性に爪痕を遺すのは容易ではない。これこそ光が当初ツイッターを拒否していた理由である所の"作品性の欠如"であり、だから非常時の機動力となりえるのだが、"作品性"から離れている今の光にとっては逆に立場上肌に馴染んでいるかもしれない。仄かな無力感を感じながら、ではあるけれど。