無意識日記々

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ヒカルさんがあの歌に手厳しい理由

ヒカルの曲で英語ヴァージョンと日本語ヴァージョンがある場合、一筋縄でいかないのが通説である。『光』と『Simple And Clean』ではメロディも違えば歌の内容(この曲の場合は歌い手の視点、か)も違う。ただ言葉を変換するだけでは終わらない。終われない。

そもそもキングダムハーツシリーズの主題歌は総て日本語バージョンと英語バージョンが存在するのだけれども、ゲームの方が日本語と英語で内容やストーリーが異なるとは全く聞いたことが無い。まぁプレイしてない私が何を言っても仕方がないのだけれど、仮に同じ内容のゲームに異なるストーリーの歌をそれぞれに用意してフィットさせているとなると、今更な話だが、これ相当な離れ業なんでないの?

『Passion』と『Sanctuary』なんて、音楽から離れて歌詞だけを文字で読むととても同じ曲だとは思えないだろう。何もかもが違い過ぎる。この二つになにか共通のものを感じられるのならそれは宇多田ヒカルリスナーとして鍛えられているからだろう。情熱と聖域は深い所で繋がっているかもしれないが、即座に同じテーマとはならないよ。

しかし、自分がゲームリリース当時見た感想は、どれも主題歌として素晴らしいという話ばかりだった。ちょうど『EXODUS』を経て、ネット上でも(少なくとも英語圏のなら)反応をチェックすることが出来るようになっていたが、概ね好評どころか絶賛ばかりだった記憶がある。YouTubeでの再生回数は当時400万回を超えていた。まだあの動画あるんだろうか。

一方日本で『Passion』は流行歌としてはパッとせず、J-popファンの大方はスルーしていた。オリコン3位というのも、宇多田ヒカルとしては物足りないと。一方こちらもゲームファンには評価が高かった。

やっぱり、日本語英語どちらも「ゲームのイメージに合っていた」のだろうと思われる。ヒカルは、どうやってそんな離れ業を成し遂げたのだろうか?

今まで、「日本語と英語で歌詞を書き分ける」という話題が出た場合、その関心は音節と旋律の差異だったり、センスオブユーモアの違いだったり、視点や視線の取り方の話だったりした。だが、もっと大枠で考えた時、ヒカルは、メロディやストーリーの調整も含めて「そもそもその言語圏に於いてその楽曲が求められるニーズをそれぞれ別々に最適化する」という所業を『光』&『Simple And Clean』から『Face My Fears』に至るまでずっとやってきた事になる、んだな。それはつまり「キングダムハーツシリーズ」/"Kingdom Hearts Series"においては【それぞれの言語圏でそのゲームのオープニングとエンディングを体験した時にプレイヤーが思い入れている世界観に確実にフィットすること】だったりする訳だ。両方でそれをやるって、改めて途方も無さすぎるんじゃないの。

そりゃあ、そんな事してる人間からしたら“Part Of Your World”の日本語バージョンに文句のひとつもつけたくなりますわな、余りにもやってる事が違い過ぎる。プロとしてそこで評価が厳しくなるのは仕方がないんじゃないの。あれだよ、よくネットで流れてくる「名画の修復に取り組んだら修復者の絵が下手すぎて台無しになった」っていうあんな感じに映ってるんじゃないのかの、ヒカルの目(耳)には。それじゃあそこは本当に、仕方がない事じゃあござんせんか?