無意識日記々

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くまちゃんマダー?

絵本を思い出すと、川を隔ててこちら側にくまちゃん、向こう岸に熊の親子が居る。一言で言ってしまえば、人間活動に従事するとはこの岸を越える事、或いは越えてそこで暫く過ごす事なのかもしれない。くまちゃんがいいようのない"怒り"に苛まれている間、親子はそうするのが当然、というか何の疑いもなく"普通に"振る舞っている。なぜか(線画ではあるけれど)リアルに描かれた熊。最近の光がKuma Changやクマンズのみならず野生の("Wikd Life"な)熊の話までしだすようになったのは、そうした"普通な"生活を視野に入れるようになったから(…か?)。16の時光は"音楽の制作中、私は怒ってばかり"と自嘲気味に書き記していたが、怒りの対岸は創作(のプレッシャー)とは無縁の世界。しかし、思い上がりとはまさにそれが普通で当たり前だと思う事なのだが、どうなんだろう。

光は今向こう岸に居るのか? そうとも思えない。対象がぬいぐるみだろうが生きている獣だろうがくまくまくまくまくまくま、だ。何も変わってはいないようにみえる。ただ、昨夜のTVで親子熊に反応したのは、きぐるみやぬいぐるみにはそれがないのだから、必然ともいえるし意外ともいえる。やっぱりよくわからない。

パンダの話もしとくか。私見だが、パンダには血の匂いがしない。笹ばっか食ってるからだろうか。熊もまぁ雑食なんだけど、鮭を引きちぎってこそ熊だよねー、と思う。魚へんに圭か。いや何でもない。神は血を好む。何かというとすぐ生け贄である。しかも、パンダを補食する生物もほぼ居らず、パンダ自体から血が流れるイメージもない。天変地異の回避を祈ったり来季の豊作を願ったりする相手としては、余りにこの血だらけの、血塗られた世界に対して"お客さん"過ぎるのだ。客寄せパンダとよくいうが、あの動物の場違い感は寧ろ彼らの方が客なんだと思わせる。法外なレンタル料とか、実に相応しい。神というより宇宙人だな。光が熊の神々しさを血生臭さに求めるかどうかはちょっと微妙だから、私の私見に同感してくれるかどうかはとても怪しい。