無意識日記々

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疑う自由

およそ"民主国家"を謳っている国では"信教・信仰の自由"は必須中の必須である(と思っているが現実がどうなのかは知らない)。須くこの日本という国でもその自由は全力で保証されている。貴方が何をどう信じようが、その権利を他者から奪わない限りに於いて自由ですよ、というのだ。

限りに於いて? その通り。信教信仰とは、必ず他の信教信仰と教義・理念でぶつかる事がある。実際にその時が訪れた場合争いが起こるのだが、それはもし起こるのならどちらかが絶滅するまで終わる事がない。なぜならば、彼らは結局それぞれの信念を信じ抜くことでアイデンティティを保っているからだ。宗教は複数あり、その衝突は絶望を齎し続ける。生物の生存闘争だと思えば、それは極々"自然"なことでもある。

では、どこかで踏みとどまることはできないのか? 信仰間において闘争が不可避だとしても、何かやれることはないのか? その為に我々はもうひとつ、信教信仰の自由、何かを信じる自由とともにあらゆるものを"疑う自由"がある。教義は、聖典は確かにそう言っているが、それは本当に真実なのか? 勿論それは信仰の内部ではタブーなのだが、我々は何を信じるのも自由なのだからひとつのものからほかのものに移れるという為には、今ある目の前の教義を疑う自由が必ずなければならない。信じる自由と疑う自由は常に背中合わせなのである。

昨今に限った事ではないが、アイドルやアーティストに対する"信仰心"というのは、時に目を見張るものがある。グッズの購入やファンクラブの会費納入などを冗談めかして"お布施"などと呼ぶのも、そのファン活動が宗教じみていることの自嘲的な揶揄だということもできるだろう。

宇多田ヒカルはファンクラブを持たない。周知の事実であるが、そこには彼女の"一曲々々を好きになってくれたりくれなかったりしてくれれば"という思いが込められている。ファンクラブは、そういった判断や批判能力を衰えさせ自分の事を盲目的に信じさせる効用がある事がみえてしまうからだ。

つまり、僕らは常に宇多田ヒカルという名の許に世に出される作品群を"疑う自由"を保証されているのだ。ミュージシャン自らがこの自由に自覚的である例は稀であり、そして実に嬉しい事だ。

一方で我々は「本当に私はこの曲を信じることが出来るだろうか?」という問いに対して、常に自力で答えを出さなければならない。それは造作のないことのようにみえて、実際は恐ろしく難しい。年がら年中音楽を聴いている私ですら(と自分で云うのも自意識過剰ですがね)、今聴いて感じた感想がその曲に対して正当なものか、時々不安になることがあるのだから。

何かを信じ続けるのも大変だけれど、すべてを疑い続けるのもまた圧倒的なエネルギーが必要だ。大抵の人間はどちらかに特化できるほど強くなく、何かを信じていたり何かを疑っていたりとふらふらしたものであり、自分の気に入った曲を好きだといってくれる誰かが見つからないとやけに不安になったり、同じように感じる人に巡り逢うと急に安心したり。でも、その不安と安心を誰よりも激しく繰り返してきたのが宇多田光本人だということは忘れないであげてね。