無意識日記々

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あたふた

ふと気がついたのだが、もしかしてここの読者であるにもかかわらず"Passion 〜after the battle〜" を聴いた事がない人もいらっしゃるのだろうか。考えてみたら、Single Collection Vol.2にも収録されていないし、元々ULTRA BLUEにも入ってなかった(Flavor Of Lifeは両方入れたのになぁ)のだから出会う機会もなくここまで来ているケースもあるかもしれない。5年半も前のシングル盤にしか収録されていないバージョンなのだから不思議ではない。もし貴方か該当するなら、こんなblogなんか読むのは後回しにして今すぐ買いに走ろう。Amazonでは中古が"1円〜"になっていた。どゆことやねん。まぁ今は配信で数百円で買えるだろうし何らかの入手方法はある筈だ。

それにしてもこんな美しい楽曲を、然もシングル・バージョンを知っているのに聴いた事がないとすればなんとももったいないことである。Passionの別バージョンというより"後編"といった方がいい。

そう、美しさ。ヒカルの曲で美しい曲といったらまずFINAL DISTANCEだが、このafter the battleも負けていない。シングル・盤バージョンより寧ろこちらの方がPassionの美しさがわかりやすく表現されていると思う。

何か圧倒的な美しさに触れた時ひとはそれを「息を呑むような」とか「吸い込まれるような」とか形容することがしばしばある。そこには何か、見えない大きな力が自分の周りに伝わってくるような、その流れが自分の中に入り込んでくるような、そういう感覚がある。隠喩であれ直喩であれ、美の感覚をひとは"空気の流れ(や断絶)のようなもの"で表現したがるのだ。

特に音楽に特徴的だと思うが、素晴らしい作品とはそれ自体が呼吸をしている。音の鳴っていない余白の部分にも空気の流れが脈々とあり、その見えない聞こえない流れの中からまた音が生まれてくる。前半のマット・ロードによるピアノは絶品中の絶品である。音数を絞り、音の残響に豊かさを孕ませた彼のこのセンスは長くバンマスを務めるに相応しい。

そして、見えない聞こえない所で脈々と打たれているリズムが、この楽曲のドラマティックな展開に必然性を与えている。ピアノと歌の前半部分から後半にバンドが入ってくる場面も、最後にギターが一閃してバンドがカットアウトする場面も、全体の流れとリズムの中で必然的に生まれてきたものだからまるで不自然さがない。それぞれの瞬間に我々はまさしく息を呑み、まるで彫刻や絵画をひとつの全体として捉えるように、その一瞬の中に音楽の、楽曲の全体の姿を思い描く。そこに我々を連れていってくれるのが全体の空気の流れであり、リズムの鼓動であり、即ち"呼吸"なのである。

鼓動と同調して空気の流れをやりとりする"呼吸"を楽曲の中に感じ取れたとき、音楽はその美しさを我々の眼前に現してくれる。それは生命の躍動の美であり、儚き時の流れの中に一瞬だけ煌めく永遠である。トライバルなリズムセクションと空間を使ったピアノの調べ、空を切り割くように嘶くエレクトリックギターの輝く音色、時計とトケイソウ(Passion Flower)をモチーフにしたギミックの数々。総てが楽曲の鼓動と呼吸に同調して生まれてくる。音。そして時と生命の流れを総て超越して歌われるヒカルの詞。声。総てが素晴らしい。この楽曲が手に入らないなんて事態にならないようにEMIは重々気をつけてうただきたいものである。