無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

無力

震災以後ミュージシャンたちは「音楽に何ができるか/音楽家にできることは何なのか」を自問しているように見受けられるが、こういう問題設定自体、普段「音楽に出来ることは、ない」のをうっすら自覚しているように思えてくる。

勿論、音楽は人の心にはたらきかけ得るし、それをきっかけにして行動を起こすかもしれないが、結局は誰か動いてくれる人が居ないと話にならない。"何かができる"というのは、人と人との約束事を離れて、自然に直接作用することをいう。幾ら楽器や喉で空気を震わせたって、その名残は忽ち消え失せてしまうだけだ。たまにワイングラスを破壊できる人とか居るけれど。どんな歌も、運ばれた水や食料や薬品にはかなわない。

そのもどかしさとどう向き合うか。耐えきれなくなれば音楽から離れることになる。空気を震わせ人の心が奮い立つのを待つよりは、実際にモノを動かす立場に推移していくだろう。

音楽と向き合い続けるというのは、何もできない音楽を、それでも愛するかという哲学問答を繰り返す事である。その点、光は強い。そもそもの出発点が強力な無力感だからである。親に振り回され続けた幼少期を経て、「何もできない」状況に向かい合い続けた人間がどう強さを育んでいたかは、「ゆきだるま 一緒につくろう 溶けるけど」の一句の時点で完成されている。「結局、何にもならない」事に執心し従事するのに躊躇いがない。

祈りや願い、誓いといった心理は「何もできることがない」と痛感した時点から起ち現れる。何かできることがあれば祈ってなんかいない。人が祈るのは無力故。音楽は自らの無力を以て無力に嘆き諦める人間を優しく包み込む。人の祈りを込めるのに歌は最も相応しい。「音楽に何ができるか」「何もできないよ。それでも歌う。それが音楽だ。」

人間活動って、そうすると、光が「人としてできること」に従事する意味があるのか。それで何を感じるか、きかせてもらいたいような、もらいたくないような。