無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

サッカカ

義務教育の範囲で"トレード・オフ"の概念を教えるのは無理なのかな〜無理だろうな〜…七十五日どころではなく続く原発事故関連報道にまだまだウンザリしながら、かるぅく絶望してみる。トレードオフというより、もっとシンプルにいえば複数の問題が持ち上がった時の対処法という概念、枠組みがないというべきか。世の中に危険が放射能漏れしかないのであれば線量が如何程であろうが徹底的に除去、忌避すればよいが、世界はそうやっている間にも様々な出来事を生起させている。地球温暖化防止の為に二酸化炭素放出を抑えようとすれば原発のような"クリーン"エネルギーが必要になるし、脱原発するなら火力発電のような二酸化炭素を放出する機関が必要になるかもしれない。そもそも大量のエネルギー消費自体が…と、あちらを立てればこちらが立たず、あちらとこちらを立てられたと思ったらそちらが沈んでいた…というのが現実である。単体の問題を解決する場合と異なり、そもそも解決というのが何なのかがわからないのが複数の問題に遭遇したと
きの"問題"である。

歌を作る、という作業は常にこの状況下に置かれていると考えることができる。メロディに合う歌詞を考えるときに、ストーリーやメッセージといった内容を伝える為の言葉の選びと音韻を考慮した時の言葉の選びは必ずしも、いや大抵の場合一致しない。言いたい事を言えた上にメロディに載せた時に不自然にならないような言葉を見つけてくるのは至難の業である。

まず作曲があって、あとから作詞をする場合はメロディは固定されているが、光の場合シンガーソングライターなので、うまくいかない場合は「じゃあメロディの方を変えちゃえ」ということが出来る。光とSimple And Cleanで、日本語と英語各々にあわせてメロディを変えたように。

こうして見ると、歌を作るという作業は"作詞・作曲"という風な分裂した言い方をするより"作歌"という独自の作業だと思った方がいいかもしれない。ただいいフレーズが思いつくだけでも、メロディにあわせた言葉を選べるだけでもなく、旋律・内容・音韻のうちどれを基準として重視するかという"価値判断基準の転換判断"こそが作業の主旨だからだ。まさに、問題が何なのかを見極める問題と相対するのが"作歌家"なのだろう。(多分、さっかか、というのが言いにくいから定着しないのだろうなぁ)

人間活動というのは、この作歌家観の中では極めて重要な意味をもつ。ひとつの価値観に基づいた業界に居続けるとこの"問題を見極める問題を解く"能力が衰える可能性があり、作歌家としてはマイナスである。常に外へと目を向け、多様な価値判断基準の間を行き来することがその感性を鈍らせない為には肝要だろう。寧ろ、普段から複数の業界に首を突っ込んで、平時からアーティスト活動と人間活動を並行してやる方が理想かもしれないが、この問題もまた最適な解答の存在しない、問題を見極める問題かもしれない。ややこし。