無意識日記々

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twenty-seven sacrifice

「また27歳か」。英国のソウル・シンガー、エイミー・ワインハウスの訃報を聞いた時、私は当然のようにそう呟いた。死者を前にしてこういう事を口にするのは不敬である事重々承知で付言するが、彼女の破滅は誰もが予想した、予定調和とすらいえる出来事だ。それ程までに生前のスキャンダルには事欠かなかった。それでも尚、やはり実際に破滅が訪れるのはショッキングだ。

彼女は所謂ロック・ミュージシャンの系譜ではないし、27歳でない年齢で死んでいったミュージシャンは幾らでもいる。不正確な伝説に踊らされているだけかもしれない。しかしながら、人の成長には一定の年齢傾向がある事は確かで、誰しもに当てはまるという訳ではないが、この27という年齢はひとつ山場として立ち塞がっている気がしてならない。

これをどう回避するか、またしてもひとつの才能を喪う事で我々の進歩のなさと無力を痛感する事になったのだが、本当に何か方法はないものか。ひとつは、孤独を拭う方法だ。NIRVANAにせよROLLING STONESにせよ、もしこれらが生前に解散していたなら、何か違っていたかもしれない。バンドというのは不思議なもので、時としてまるで生き物であるかのように振る舞う。オリジナルメンバーがひとりも居なくなってもそのバンド独自のサウンドが継承されていくような自立した力がある。その"生き物"を"生け贄"として捧げる事で、"生身の"人間を救う事はできないだろうか。

例えば、THE BEATLESの解散は1970年。メンバーの生まれ年が1940〜43年だから、彼らが27〜29歳の時に解散した事になる。こじつけ気味だが、この時THE BEATLESというバンドが生け贄になった事で、この4人の天才達はこれ以降も生身の人間として活動し続ける事が出来たのではないか。一方LED ZEPPELINはこの年齢を超えても活動を続け、ジョン・ボーナムを喪う事で(享年32歳)バンド活動は終局を迎えている。

宇多田光は27歳を乗り切った。しかも、過去最高に充実した活動を経て、である。15歳の頃から伝説化し、半ば生き急ぐように命を削って作品を作り続けてきた彼女が差し出した生け贄とは、あるとすれば果たして何だったのか。元々その類いの運命と無縁であったのなら構わないのだが、もしその系譜のミュージシャンとしての資質が少しでも存在するのならば今後もありとあらゆる手段でその系譜の血を封じ込めなければならない。杞憂と言われ続けようが、それだけは注視していきたいと思っている。

光の差し出した生け贄…普通に考えたら"くまちゃん"なんだけど、別に死んでないしな。てか、不死身っぽいけど。その存在に生命を救われたという実感があの溺愛ぶりに繋がっているのなら至極納得ではある。またメッセやツイートに顔を出すだろう。ペコちゃんのように舌を出して笑う光を想像しながら、こういう所が生き続ける生命力なんだろうなぁやれやれ、と安堵する私だった。エイミー、R.I.P. 我々は、学びます。