スポーツの日本代表が勝った時、或いは負けた時、優勝した時、敗退した時、なんでもいいが、みている方が彼ら彼女らに求めるコメントは、喜怒哀楽とか意義、意味である。ここまで勝ち上がれて嬉しい、とかこの勝利が被災地の方々の励みになれば、とか。応援感謝しています、とかまぁそんな感じ。
インタビューに慣れているひとはきっちり無難にそう答えるが、試合が終わったばかりの時に彼らの頭を占めているのはそんな事ではない。大抵は、あの戦術がうまくいったから勝てた、だとか、あそこで右に動いていたら勝てたかもしれない、とかそういうスポーツそのものについての事しか頭にない。当たり前である。
しかし、この乖離はとても大きい。受動者の求めるものは意義や価値であり、能動者の求めるものは技術論である。その昔「ロスタイムに追いつけると思いましたか?」と質問したインタビューアが居たが、これは受動者と能動者を完全に取り違えた質問だった(余りにも印象的なのでこのやりとりは今後も私は引用するだろうな)。能動者は"何をすればおいつけるか"、"こうすればいけるかもしれない、この方法はダメだろう"といった風に考えることはあっても"おいつけるかおいちけないか"なんていう質問設定はしない。諦めたらそこで試合終了ですよ。
余計な話が長くなったのでここで切り上げる。要は、ミュージシャンも同じで、音楽について興味があるのは本来、このコードを鳴らせばこういう効果があって、とかこの場面でフルートを登場させてはどうだろう、といった技術的な話だ。
歌詞の方がわかりやすいか。書き手は、音程や音韻の縛りの中で適切な解を求める事、もっと砕けて一般的にいえば"うまいこと言えた"時が最も喜ばしい。例えばこのblogも似たようなもので、書いてる時に考えているのは光の事ばかりかというとそうでもなく、修飾節の順序だったり段落の構成だったり助詞の使い分けだったり、と殆どが文法の話である。書く着想は時間にすると一瞬で、確かに内容は読者にとって興味のある所だろうが、僕が今考えているのは"今まできいたこともないような言い回しや言葉の組み合わせがみつからないかな〜"という事だったりする。こんな風に書いちゃうと思いつかなくなるんだよね。あらら。
だから、光の歌を聞いてエモーションやエネルギーを得ているからといって、別に光はエモーショナルになっていたりエネルギッシュになっていたりするとは限らないのだ。表現とはそんなもので、送り手と受け手、能動者と受動者の間にはやはりどこまでも乖離がある。
しかしながら、音楽の場合は奇妙な事が起こる。最も優れた送り手は、ただの受け手と区別がつかなくなるのだ。毎度ここでモーツァルトを引き合いに出すが、彼は頭の中で幾らでも勝手に鳴っている音楽を"写譜"していただけらしい。つまり、ただのひとりめの受け手なのだ。そのせいかなんなのか、彼の書いた楽曲というのはどこまでもスムースで、苦労した痕というものを感じさせない。受動者が受け取りたいと思う滑らかさを、どこまでも体現している。ここには、能動者と受動者の間の乖離は消え失せる。技術論は不要になり(だって写譜してるだけだからね―写譜自体の技術は必要ですこど)、意義や意味、もっといえば純粋な美を讃える事が可能となる。
光がそういう作曲今までできたことがあるかというと、多分ない。FINAL DISTANCE もPrisoner Of Loveも、紆余曲折回り道しながら到達した境地だ。この"ストレートでなさ"が愛おしさの源泉とすると実に愛すべき所なのだが、お陰で光は「苦悩なくして名曲なし」みたいなのが基本になってしまった。能動者の苦悩と技術論。それ全体を作品として眺めれれば完璧なのかもしれないがそれが出来たら、それこそ苦労はないだろう。