無意識日記々

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著作権とお金の話

人は死を身近に感じた時、永遠に憧れる。中川翔子が事ある毎に「生きた証を残したい」と書き記すのは、彼女が死の匂いを常に身近に感じていた時期があるからではないか。知らんけど。

のこす、のこる。自分の生命の時間が有限だと感じたとき、自らが永遠と繋がる為には、カタチとしてのこる何かが必要だ。できれば、いつまでも絶えずに続いていくものであって欲しい―そう考えた時、デジタル化(根本的には、量子化)という技術を身につけた我々の世代は、限りない複製というものを目の当たりにする。

作品として、一点モノは鬼のような価値がある。特に、立体造形の類は複製自体に相当の技術を要する為雁作でも価値がつく。マ・クベが「あの壷はいいものだ」となぜ執拗に叫んだか、未だに壷のよさなんて知らない私には相変わらずわからないのだが、アートとしての価値がとんでもなくなるだろうことは、そういった複製の困難から幾らかは推測できる。悠久の時の流れの中で、一度でも壊してしまったら元には戻らないのだ。作者がもう居ない場合は特に。

デジタル世代のコンテンツは、その複製の精度があがった故に(オリジナルがデジタルデータそのものならば原理的には約100%純度の)"本物"であっても、価値、或いは値段が下がり続ける。なんらかの規制をかけなければ、いつでもどこでも手に入るのだから(これを専門用語で"限界費用がゼロに近づく"と表現するらしい)。壷は規制のあるなしに関係なく、複製自体が人類にとって困難だ。壷の値段が何億にもなっている一方、モーツァルトのレクイエムはパブリックドメインでタダで手に入る。

が、未来まで、後々まで残るのはどちらかといえばレクイエムの方なのだ。タダなお陰で、興味をもった人間の手元にデータとして置いてもらえる。それこそ世界が滅亡でもしない限り、この曲が一切聴けない事態はやってこない筈である。

壷は違う。何が何でも守り通さねばならない。厳重に保管し、湿度や温度を管理して地震やらの天災に備え、更にその機構を次の世代に継承させていかなければならない。生命を賭して仕上げた作品は唯一無二であればあるほど、生き残るのは難しい。無生物であっても、この世界の中でカタチを留めるのは容易ではないからだ。

高価な一点モノと、タダ同然の複製可能物。どちらの"生き方"が、より永遠に近付けるだろう。まだ結論は出したくないが、今のところはやはり後者、複製可能物の方だと思う。ならば、そうやって憧れの永遠と繋がれるのであれば、そこからお金が取れないのはそれはそれで自然な事ではないだろうか。

死を身近に感じるような人にとって、作品が将来にわたって生き残っていくという希望は、何にもまして切実なものだ。"生きてる感じがしない"とまで言い切ったことのある宇多田光は、自らの作品に対して、どのような感覚を持っているだろうか。死を身近に感じる、とはそれによって恐怖が増大する人と(大多数はそうだろう)、何か居心地のよさみたいなものを感じる人がいる。光は後者だ。死を恐れないが故に永遠に対する憧れが薄いのならば、"何かをのこす"というスキームに対して大きな憧れもないかもしれない。そういう光にとっては、作品の複製権というのは、守銭奴的な発想から遠くにありながらも、確実にマネタイズする何かを必ず内包してゆくようにも思われる。ひとことでいえば、"依然稼げる"。のこさなくて、のこらなくていい人の強さはお金に変わる。何しろTime is Money、金は時間の(不完全な)複製なのだから、常に過ぎ去り二度と戻ってこない"時間"に寄り添い死を恐れなければ
、他人の時間の刻印であるお金は、光の元にまた次々と集まってくるだろう。これが恐らく、真のPop Musicianの神髄である。