無意識日記々

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法治と放置の狭間で

著作権の問題はいつの時点でも難しい。今こうしている間にも世界各地で光の曲を「歌ってみた」動画がUPされているし、様々なマッシュアップも制作されているだろう。一昔前ならこれらは私的利用の域を出ず触法の懸念も薄かったが今や瞬時に世界に向けて公開してしまえる。

当然、光がその気になれば関連動画は総て削除される。実際、ディズニーやジャニーズなどは(後者は肖像権も含めてだが)徹底した管理を行っており、時に行き過ぎだとの非難を浴びる事もある。法に準じている以上、文句を言われる筋合いはないのだが―と書くのはあクマで建て前。法を厳密に適用することで、それによって守ろうとするもの(法治社会)を壊す事だって可能なのだ。花粉症や各種アレルギー(アナフィラキシー等)、人体は過剰な抗体反応によって自らの生活を蝕める。社会だって同じである。

もちろん、だからといって総て野放しにしていい筈がない。法治か放置か、という二元論ではなく、何が適切な問題設定なのか、という所から掘り返さなければならない。

現状、光の音楽を二次使用した動画等は実際上放置されている。Youtubeなどはアップロード時に既成音源を参照して余りに酷似なものは事前に審査の上ブロックしている為、ただの海賊版は規制されていると思っていい。加工された動画、音源に対してどう対処するか。何を基準にその対処法を選別するか。

少し前にヒカルの歌声を使った人力ボーカロイドが話題になった。何と光本人からコメントがありその途方もない労力に賞賛を送りつつも「アイコラみたい」とひとことチクリとする事も忘れなかった。このやりとりは著作権に対する問題の要点が簡潔に込められているように思う。

既存の音声を切り貼りして楽曲を構成するのは気の遠くなるような作業で、これが一定度創造的な作業であることは疑いがない。一方で、歌声の"提供者"は、そういった作業が創造的であればあるほど、自分の指紋が刻印されながら作品が自らの手を離れていくことを感じる。そこには、作り上げたものが崩されていく気持ち悪さも同居している。

勝手に利用されることで収益を不当に得ることへの不快感より、作り手によってはこの"自分の作品が壊される感覚"への懸念の方が大きい気がする。が、一点モノの芸術と違い壊されているのは複製されたものなので作品自体は壊されてはいない。それによる弊害は作者の不快感と評判の誤謬であろう。

光の場合、わざわざツイートして取り上げたのは、即ち黙認とは違うという事だと思う。不快感と評判という、とらえどころのない概念をどう定式化していくか。たぶん、この問題はまだまだ始まったばかりなのだ。先は長いと覚悟しておく必要がありそうだ。