無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

please please you

「自分を大切にする」―光から出された宿題、私はとても気が重い。最も苦手な事を突き付けられたといっていい。レバーを口一杯に放り込まれたような気分である(ゾゾゾゾゾ)。ゾがゲシュタルト崩壊した。

辛い事や痛い事や苦しい事から逃げるのはお手のものなのだが、まぁそれは生き物の本能みたいなもので、今でものほほんと毎日を生きてる事の原因みたいなもんである。自分を大切にするのとは全く違う。正反対ですらあるだろう。

『大切な人を大切にする それだけでいいんです』―この、宇多田ヒカルの12年間をひとまず締め括る一節の"大切な人"の所に自分自身を当て填めるのだ。もう、どうしていいかわからない。

自分が楽しい事、喜ぶ事は自分自身でよく解っている、というか今迄何を楽しんできて、何を喜んできたかは取り敢えず知っている、取り敢えず覚えている。まぁ例えば光のコンサートに行けばいいのだ。本当に楽しい。何も迷う事のない、あの自分自身の居場所に近い感覚。いやそれはそれでいいのだが。

自分自身を大切にする、というのは、私なりの解釈で言わせて貰えれば、自分自身の人生を目一杯楽しむ、というよりは、このi_という人間を私自身の手で楽しませる、喜ばせる、納得させる事だと思う。他者にサービスするように、自分自身にもサービスをするのだ。

踏み込んでいえば、まず第一段階として自分自身をひとりのサーバー/エンターテイナー/プリーザー(server/entertainer/pleaser)としてプロデュースし、今度は自分がその成果をレシーバー/受け手としてエンジョイ/享受する。いわば究極の自己完結サイクルだが、これは非常に難度が高い。

例えば映画を見に行って帰ってきた。あなたは呟く、「つまんなかった」と。ありふれた光景だが、この呟きが自分自身に還ってくるのだ。1800円払って気の大きくなった時のような厳しい目線で自分自身を睨み付ける。考えただけでも恐ろしい。

一般人が某メダリストのように「初めて自分で自分を誉めたいと思います」といえるようになるのは至難の業だ。他人の成果をみるように自分の成果をみる。その目線を携えたままで"自分を大切にする"のは、如何に難儀な事であるかいな。


余談であり且つ完全な独り言だが、認知症にかかりにくい人は常日頃から日常的に自分の手で自分自身を楽しませているような気がする。気のせいだと言われてしまえば反論する気もさらさらないが、たとえひとりっきりで過ごしていても単独で"社会性"みたいなもんを維持できるかどうかが大きいように思う。勿論、普段から様々な人々と会っている方がいいのはいうまでもないのだが。

世界とちゃんと向き合い、対話をする事。国際情勢に関心をもて、という話ではない(人によってはあてはまる事もあるか)。アタマと手を使ってこちらからはたらきかけて、その反作用をきっちり受け取る事。プロデュースしてサーブしてレシーブする事。そのサイクルが、他人を巻き込もうが巻き込まいがしっかりと持続し日々運ばれ営まれる事。「自分自身を大切にする」とは、私にとってそういうハードルの高い事のように思えるのだ。

『それだけでいいんです』とは言うものの、そのそれだけに辿り着く為には、バカボンのパパのように迷いなく「これでいいのだ」と言い切る為には、まだまだやらなければならない事がたくさんある。


これを読んでる皆さんはここまで無闇に難しく考え込まず、もっと素直に光の言葉を捉えてくださいね。「私は私を大切にしてる!」―そう言い切れる人は、それだけで、うん、いいんです。