無意識日記々

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ぽさ

実は今月はプログレメタラーにとっては注目盤が立て続けに出る月で。80年代デビュー、90年代デビュー、00年代デビューの各世代の"大御所"たちが続けざまに新譜をリリースする。ほくほくである。

先週はDream Theater、今週はOpeth、そして月末はMastodonという豪華絢爛。それぞれ前作は全米6位、23位、11位と実績十分。注目度はいずれも前作以上で、こんなポップさのかけらもないコア中のコアな音楽がチャート上位に来るのは痛快である。これでKing CrimsonとToolとThe Mars Voltaが参戦してくれれば…。まぁそれはまた次の機会に。

今日発売になったOpethは、その3バンドの中でも最も"大御所感"が強い。先輩であるDream Theaterは(前作迄は)どうしても後輩達のアイデアを拝借する事頻りだった為やや威厳を損なう感もあったが、Opethの場合徹頭徹尾Opethの世界。新作の曲も、静かな曲であれ激しい曲であれ"あのサウンド"が鳴ればすぐさまOpethと解る静謐かつ強烈な個性。94点つけたくなる気持ちもわかるよ。

宇多田ヒカルの場合、実はそういう"一聴しただけで分かる個性"というものがない。勿論歌い始めれば(たむらんに騙されない限り)ヒカルだとすぐわかるのだが、今言っているのはサウンドやフレーズ自体の話である。

考えてみれば、この12年ほぼ総てのケースにおいてこちらは"ヒカルの新曲を聴くぞ"と身構えて新曲に接してきている為、ふとした時に新しい曲が耳に入りそれがあとから(或いは歌い始めた時に)ヒカルだとわかる、なんていう経験がない。

であるからして想像するしかないのだが、私にはCOLORSとThis Is LoveとStay Goldのイントロを同一人物が書いたかどうか判定する能力はない。いや誰がそうとわかる? 無理だと思うよ。

作曲家は、才能があればある程個性がどうしても出てしまう。モーツァルトなんて、幾らでも知らない曲が出てくるが鳴ったらすぐにモーツァルトだとわかる。90年代を生きた人なら小室哲哉の曲を耳にしたら"またTKプロデュースかよ"と悪態つきながら苦笑いした事がある筈だ。才能とは個性なのである。個性は才能とは限らないけど。

ヒカルの場合、歌メロにはややクセというか傾向がある。しかし、それすらも見極めるのは難しい。

一番ヒカルっぽさが出るのはリズムトラックで、あれだけアンニュイな日曜の朝にもついついちゃかぽこ入れてしまうし、Crossover InterludeやGentle Beast Interludeは似たリズムパターンを描く。しかしそれは元々かなりオーソドックスなダンスビートなので、それ単体で個性といえるかは微妙な所だ。

しかし一番驚異的だと思うのは、これだけ多種多彩な楽曲群を眼前にして、いや、様々な曲を聴いていけばいくほど、これらの楽曲たちが基本的にひとりの人間が書いたものだという確信が強くなっていく事だ。

まぁ今更宇多田ヒカルにゴースト(ソング)ライターが居ると考える人は極少数だとは思うが、これだけ質の高い曲をたった12年でひとりの人間がこれだけ量産できた事を疑いたくなる気持ちもわかるっちゃわかる。

が、このパースペクティヴの広い楽曲群を、彼女自身以上に魅力的に歌いこなせる人間が現存しない状況においては、楽曲の魅力をいちばん熟知しているのは歌っているヒカルの他おいてない、というのは客観的事実と言っていいのではないか。1〜2曲なら、特定の方向性ならヒカルより巧く歌える人も居るかもしれないが、このレパートリー総てとなると居ないだろう。

即ち、作曲家宇多田ヒカルの個性とは、総ての曲の魅力を最大限引き出す彼女の歌唱そのものなのである。歌のアプローチそのものが個性だからサウンドの可能性が無限に広がる。まさにこの個性こそは才能と呼ぶに相応しい。