無意識日記々

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Translation Presenting Plan 05

対訳提示計画、略してTPPである。

昨夜渋谷陽一NHKFMの番組「World Rock Now」を聴いていて、そういえばこの対訳提示計画において"ラジオDJ"というポジションについて語るのを落としていた事に気がついた。

渋谷は番組中において、曲をかける前にその曲の歌詞の対訳を日本語で読み上げる。彼は、歌詞のイメージを予め備える事で曲の印象が違ってくる事をよくよく知っているからだ。これは、今までの分類でいえば"事前に歌詞を読む"という行為に相当する。この場合、"作品"としての枠組み、額縁は"1時間のラジオ・プログラム"という事になる。渋谷陽一の作品だから、彼がしゃしゃり出てきて歌詞の対訳を読み上げる事が許される。受け手側がシステムに違和感をもたない、システムの存在にすら気がつかないのが作品性の付与においては重要である。

勿論、これは日本語の曲についても同様の事があるのであって、ラジオ番組に出演したミュージシャンが歌詞の解説をしてから曲に入る、というスタイルは既に定着している。それと同じといえば同じだ。

しかし、嘗て指摘したように、日本語曲と英語曲では音楽における歌とその歌詞の役割が決定的に違うのだ。何故そうなるかの考察は他機に譲るとして、どう違うかを比喩的に表現するとすれば、ドラマにおいて登場人物のセリフにあたるのが日本語の歌の歌詞、ナレーションにあたるのが英語詞なのである。

日本語曲において歌の歌詞は音楽の作り上げる世界観に必ず則ったものとなる。或いは、歌詞の世界観に沿った音楽が添えられるのだ。音楽と歌は必ず伴奏・伴走するのである。

英語詞においては必ずしもそうはならない。音楽の作る世界がまずあって、そこにナレーションの語り口のように"外から"投げかけられるのが英語の歌詞だ(或いは、そうたり得る)。だから、その世界観を補足する言葉を継ぎ足す事も出来れば、「そんなわけないだろ」とツッコミを入れる事もできる。アメリカのカントリーソングなどは、ほのぼの牧歌調ののどかな曲調に辛辣で政治的な歌詞を載せる事が通例になっているが、そんな事ができるのも英語曲においては音楽と言葉が対比できるからなのである。

UtaDAの歌詞において、その点がどうなっていて対訳はどんな役割を果たし得るか、についてはまた次の稿に譲るとして、音楽CDの場合もラジオ番組のように、或いはDVDのコメンタリーのように、作詞者自身の解説を(或いは音声で)添付するというのもひとつの方法だとは思うのだが、UtaDAの場合、いや今後は名義が異なるか、宇多田ヒカルの英語曲の場合、果たしてそこに添付する解説は日本語コメンタリーであるべきか英語コメンタリーであるべきか、それがまた難しかったりする。それは各曲の歌詞の立ち位置次第だったりするのである。兎に角、続く。