無意識日記々

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詞でない詩を

ヒカルの詩が読みたい。

歌詞ではないヒカル作の詩といえば『Deep River +』の序文と『Untitled (at Utada United 2006)』くらいだろうか。少ない。また、これらは何れもヒカル本人の朗読によって描かれている。

詩というのは不思議なもので。前回器楽曲はここではないどこかの別世界を描いている、などと書いたがある種の詩もまた同じ感慨を齎し得る。ヒカルが「これ以上の衝撃を受けたことがない」と語る宮沢賢治の「春と修羅」などはまさにそうで、ほんの少し読むだけで瞬く間に別世界に連れて行ってくれる。それは通俗小説には現れないここではないどこかで、しかし、今ここから感じられるどこかなのだ。

余談になるが、その「春と修羅」の序文がアニメ映画「銀河鉄道の夜」で使われているのをヒカルは知っていたっけな。しかも朗読者は故・常田富士男。『BLUE』を朗読してヒカルを洟水号泣に追い込んだ「日本昔ばなし」で有名な彼である。宮沢賢治×常田富士男だなんてヒカルからすりゃ垂涎垂洟な組み合わせだと思うのだがヒカルがこの映画の話をしたことがあったかなぁ。もし好きなら例えばますむらひろしと対談してみたら……猫の話になるかな……。

余談が過ぎた。ともかく、『Deep River +』『Untitled』ともに朗読初聴時のインパクトはかなりのものだった。あれだな、一昔前なら『Laughter In The Dark Tour 2018』の中休みはコントではなく詩の朗読だったかもわからないわな。それだとアイランドステージ以降に向けて重くなり過ぎるので笑いを取りに行って正解だったと思うけど。

ヒカルの「朗読力」もまた魅力である。声優としてはピノコ黒歴史だなんだと散々言われてきているが、ほんの少し訓練すれば一流の成果を出せるとあたしゃ昔から言っている。勿論アテレコと朗読は別物だが、声に感傷を載せる技は音楽が無くても健在であるように思えるぞっと。

……とっちらかった。余談なんかするからだ。また次回に纏め直そう。