無意識日記々

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こわれもの

光が復帰後音楽以外の活動の心構えは、特に用意しない事にしている。

ただでさえ、音楽だけでも予測不可能なのに、他の分野の事となるともうどこから手をつけていいかわからなくなるからだ。

久しぶりの大事なお知らせを読むと、「人間活動」と対比されている言葉は「アーティスト活動」である事がわかる。

たった今、宇多田ヒカルが人間活動に専念しているとすれば、それは逆に、戻る先としてアーティスト活動がしっかり在る事の裏返しに他ならない。

この2つを切り離すというか、両極としてみる態度をこうやって提示してきたからには、これは「今後もアーティスト活動を続けていきます」と宣言しているに等しいといえる。

そう考えると、この「人間活動」は結構な正念場でもある。こういったパースペクティヴを翻意するかどうか、最後の選択になるだろうからだ。

一通り人間活動に従事してみて、やっぱり戻るべき場所は(想定通り)アーティスト活動なんだという確信を深めれば、次の人間活動はそうそう必要ないだろう。次からは普通に「長期休暇」という体裁をとる筈である。

しかし、何事も、やってみなければわからない。人間活動を通じて、人間宇多田光に何かやるべき事が発見されたとすれば、大きく舵をそちらに向けるかもしれない。

そういう意味では、確かに不安な時期ではある。光の事を信用していないのではなく、光の決断を尊重しようとすると、どうしてもその不安と向き合わなければならない。

これは、僕らの中に、当たり前ながら、また光に歌を唄って欲しいという願望が在るからである。在る、というより、心がその願いで出来ているていった方がいいかもしれない。だから、この不安は、心自体がこわれる事への不安なのである。

他人の人生だ。気にしなければ、何でもない、そうできるなら、確かに容易い。信頼なり信用なりが裏切られる不安というより、培い組み上げてきた心のパズルを、もう一度バラバラにしていちから組み直し始めなければならない不安。そもそも、そんな難解なパズルにもう一度挑戦する気力は、果たしてこわれきった心に、まだ残っているのだろうか。

リスクは、大きい。他者の存在に依存した心の形成を経た者は、どうしても一蓮托生になる。自立していない精神から出る感情は、果たして愛情と呼べるかはわからない。然し、もうそうなっているのだ。そこから始める以外、仕方がない。

出来れば、願いが叶って欲しいし、恐らくそうはなるだろう。その事に対しては、不安はない。矛盾しているようだが。ありもしなさそうな事をわざわざ考えてみて、何を確認したかといえば、光を結局信じているということ。弱いからですよ。