無意識日記々

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まるで不可能三角形

ヒカルの音楽活動に対するモチベーションは一体どこから来ているのか。何だか延々論じてきている気がするが未だによくわからない。今回はそのわからなさ加減をつらつら書いてみる。

私は、ヒカルは別に音楽にこだわらなくてもよい、と常々考えてきた。例えばレオナルド・ダヴィンチのようにあらゆる分野で創造的な仕事をすればよいと。小説を書きたくなったら書けばよいし、漫画を書きたくなったら書けばよい。研究に没頭するもよし、映画を撮影するもよし、芝居に打ち込むもよし。仲居さんや本屋さんに挑戦してみるのもアリだろう。ただひとつ、Message from Hikkiだけ堅持してくれれば後は好きにしなはれ、とそう思ってきた。

しかし、現実はこれでもかと音楽に偏った活動をしている。編集長もやったし映像監督もやったが何れも"音楽家"宇多田ヒカルを補佐する役割のものである。点線に至っては、あそこまで大分な書物を2冊仕上げながらきっちりニューアルバムを隣で出していた。何もそこまでしなくても…と思いつつ当時はニヤニヤと心配が止まらなかった。懐かしい。もう4年前の話か。

何より音楽が本当にメインなんだな、と思ったのは、今回の人間活動である。言わば、"宇多田ヒカル"から離れた活動を宇多田光(と書けば彼女本人の事だと昔は決まっていたのだが今やこれは映像監督の名義と同じだからとてもややこしい)が行う期間な訳だが、この間の動向は一切と言っていいほど触れられていない。もしかしたら、社会に対して大々的に自分の名前を出す活動は音楽とその周辺に関するものと決めているのかもしれない。いや、わからないが。

予めそんな風には決めていないだろう、とは思う。ただ、なぜそれなら人間活動を『休養でも充電期間でもない』と言ったのか。ここがわからない。何が言いたいかといえば、もしアーティスト活動をしないだけでそれが休養ではないのなら、今の活動に自分の知名度を利用しない手はないからだ。今何やってるか知らんけど。そうしていない、という事は、自分の知名度はミュージシャンとしてのキャリアと共にあり、それ以外の事に「宇多田ヒカル」という看板は使わない、という線引きをしていると見てとれる。誤解を恐れずにハッキリ言えば、休養でも充電期間でもないのなら今やってる事を開けっぴろげに公表し続けてもよかったんじゃないかという事だ。そして実際はそうしていない。人間活動の実態は相変わらず我々には謎のままだ。如何に彼女が実際に精力的に活動していようが、それを公表しない以上こちらからみれば「休養」であり「充電期間」である。

今書いている事はただの言葉遊びに見えるかもしれないが、案外重要だと思う。勿論、今携わっている活動が知名度が邪魔をするものだというのならわかる。であるならば、今後の人間活動の中で、自身の知名度を最大限に活用できるものが出てくれば、その期間音楽を放り出して、バンバンメディアに露出をだな…

…しないよな。ポイントはここなのだ。つまり、有名人としての宇多田ヒカルは音楽家なのである。今のままなら。人間活動が休養でも充電期間でもない、人としてフルスロットルな、それでいてアーティスト活動とは違うものであるならば、種類によっては宇多田ヒカルの名前を前面に押し出して活動すればよい。休養ではないのなら最大限の成果をあげようと目論むのが自然だろう。取り敢えず、今まではそうした事はしてこなかった。そして、今後もそうしなかったとするならば、復帰した時の宇多田ヒカルの看板は音楽家としてのものである。

ただの有名人、というキャラクターはことのほか効能が強い。わかりやすくいえば、ヒカルの場合、命懸けで新曲を作って歌ってシングルCDをリリースするより、TVCMに出て15秒ニッコリ笑っていた方が儲かるかもしれないのだ。英語の教材とかどうだろう。いやそれはどうでもいいが、ヒカルの社会的価値は、音楽家である事よりも有名人である事の方かもしれないのだ。うぅむ。

そこを今は一緒に切り離している。有名人であり音楽家である宇多田ヒカルはやっぱりお休みしているのだ。だとすれば今は明らかに宇多田ヒカルの休養期間であり充電期間だという事になる。嗚呼、ややこしい。どっちなんだ。


はっきり言ってどっちでもいい。


考えれば考えるほど、この2年間書き続けてきた通り「何かが書かれていない、語られていない」と感じる。この圧倒的な不足感。ラジオ番組が始まって、益々その感触が増した。まぁいいや、多分、考えてもわからないのだろう。冒頭で述べた通り、今回はその確認作業なのだった。