無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

embracing the emptiness

光が帰ってきた時の"音楽的準備"は如何程のものだろうか。

有り余るようなアイデアを携えて次から次へと曲を繰り出してくるか、それとも空っぽの真っ白けで茫漠自失な状態からスタートするか。意外に思われるかもしれないが、よい曲が出来るのは多分後者の状態だ。

イデアは、蓄積するとよくない。確かに、とっておいたアイデアが後から花開くのはよくある事だがそれは最初のチャンスを逃している事と同義である。そこを一旦逃すと、次に陽の目をみるのは2年後だったり5年後だったりする。アイデアは生き物であって、足がとてつもなく早い。というか、我々はそれを常に一瞬しか通れないのである。その一瞬を掴めるか否か。作曲というのはこうみえてアクションゲームなのだ。

光に限らず、名曲が生まれる時はスムーズだ。5日だ2時間だ10分だと様々なパターンがあるが、要は掴んで離さなかったものの勝ちである。女神の前髪だ。幾ら理論を知っていようが楽器が巧みに弾けようが、それは直接関係ない。鼻歌が歌えればいいのだから。

だから、曲は作れる時は驚く程作れる。全盛期の小室哲哉のように質量共に圧倒する事が可能であり、書けなくなると全く書けない。

光の場合は、人間活動中であるといっても曲作りを止めている訳ではない。何を好き好んでIvoryIIを長時間かけてインストールする必要があるか。しかし、ここでアイデアを"ストック"してしまうと、作曲家としての勘が鈍る虞がある。未来に保証なんてない方がいいのだ。

こんな事は釈迦に説法だろうと分かっていても書きたくなってしまうのは、今の光から出ているアイデアの行方が気になるからだ。我々はもしかしたら、今の時期に光が書く曲を一度も聴く事がないかもしれない。

何しろ、いちばん効果的なのは貯めまくって棄てる事だ。何も守ってくれるものがない状態に自分を置く。それが出来る人間は強い。集中力が違う。

ただ一方で光は、手をつけたアイデアを必ず完成させる事でも有名である(コアコアなファンの間では)。その音楽の慈しみっぷりが、ひたすら音楽に愛される所以でもある。

二つの事柄は明らかに矛盾している。棄てる事と絶対に見捨てない事。この矛盾を止揚できる者がクリエイターなのだろう。

よく焦らないものだ、と思う。これで引退するならわかるのだが、無時限とはいえいつかは帰ってくるのだから同じように自転車が漕げるかどうか、不安にならないのだろうか。

今まで、どんな過酷な状況下でも必ず名曲を残してきた自信と自負が確固としてないと、こうやって離れる事など出来ない。或いは、こいつはそうやって自分の中に不安が生まれるのさえ楽しんでしまおうと思っているのだろうか。自信と過信の縁取り、その危うさ。神経が磨り減るような細かな細かな違いを乗り越えてゆく、その生き方を、心底羨ましく思う。