無意識日記々

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増える選択肢と減る自由度

今まででベストのライブはWild Lifeである。

と言い切ってしまいたくなるのは、選曲が最も素晴らしいからだ。6枚のアルバムからの選りすぐりなのだから。これが、キャリアを積み重ねる事の強みである。

幾らか様々なコンサートを見てきたが、昔書いたように「勝負は会場に着く前に半分決まっている」のだ。どれだけ聴衆に馴染み深い楽曲を携えているか。少々演奏が素晴らしかろうがサウンドがクリアだろうが、"皆が知っている"事にはかなわない。

人がいちどきに頭に入れられる情報量には限りがある。その為、多くの曲を認知してもらうには必ず膨大な時間が必要になる。コンサートを成功させ、よりよいものにしていくには、何年も、何十年もかけて聴衆と記憶を共有していかなくてはならない。

その意味で、長いアーティスト活動休止期間は、2つの効果が考えられる。ひとつは、忘れられる事。毎日大量の情報に晒されている我々は、目の前に現れるものへの対応に手一杯で、現れないものに思いを馳せる時間はなかなかとれない。そうこうしているうちに存在が忘れられていき、コンサートでイントロが流れた時に「はて?聴いたことあけど?」と一瞬出遅れるようになる。

もうひとつは、物足りなくなる事。渇望の喚起、いわば感情の換気である。毎年のようにコンサートを開いているとルーティンワークになっていき、新鮮味が薄れ、どの公演がどんなだったかの区別がつかなくなってゆく。それを防ぐ為にも、たまには長い雲隠れをし、ひとの空腹感を醸成できるのも、休止期間の特徴だろう。

ヒカルの場合、このバランスが妙である。一部の曲は国民的スタンダードになってしまっていて、例えばこれから何年インターバルがあいていようとFirst Loveのイントロで人が盛り上がらない事はないだろう。忘れられるのも、なかなか難しい。

渇望感についてだが、これはもう今までも観たいのに観れなかった人を沢山輩出しているので、なんというか休むまでもない。これ以上引っ張るのはサディスティックですらある。コンサートをよりよくする為に必要、というレベルでは最早ない。

なんというか、宇多田ヒカル知名度がありすぎて、あまり一般的な常識はあてはまらない。自ら築き上げきた名曲群と、圧倒的な認知度。コンサートをグレイトに仕上げる為の要素は揃いすぎる程揃っている。

もし可能なら、復帰後数年経過した時に「復帰後のみの選曲」でライブをやってみてもらってもいいかもしれないが、やはり旧曲をやった方が盛り上がるだろう。その意味で、選曲はどんどんまだまだよくなっていくだろうが、選曲の自由度は下がってゆく。選択肢となる曲数は増えていくのに、である。妙なジレンマだなぁもう。