無意識日記々

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闇に浮かび咲いて散りゆく桜かな

そしてSAKURAドロップスである。一気呵成に畳み掛ける最初の4曲からじっくりしっとり聴かせる4曲への流れを締めくくる、いわば前半のトリを飾る曲だ。

私は(またも)この曲を侮っていたようで、UTUBEの累積再生回数はGBHPoLFoLFLトラベカラーズに次いで第7位だが、これ即ちAutomaticより上な訳で、恐れ入った。

更に今秋のデイリーに限っていえばトラベカラーズの上を行き、日によってはFoLが目と鼻の先まで近づく程の再生回数を獲得して目下第5位である。確かに、3rdアルバムのオープニングを飾る重要な位置付けではあるが、「宇多田ヒカルの人気曲TOP5は何?」と訊かれて私はSAKURAドロップスを入れる事はしない。いや全くまだまだ不見識であった。

Wild Lifeでも、あのピアノのイントロが流れた時一部で悲鳴が上がった。宇多田ライブで悲鳴があがるとなればFirst Loveと相場は決まっているのだが、やはり桜もまた特別な曲であるようだ。

UTADA UNITED 2006では結構散々な出来で、アカペラで歌い出しておきながらバンドとキーが合ってなかったとか信じられないミスまで披露した楽曲なのだが、In The Fleshからは弾き語りスタイルを採用、これが奏功している。

この静かなアレンジの中では、オリジナルで聴けるようなメリハリある歌い回しより、どこかけだるいというか、穏やかに落ち着いた節回しがよく似合う。歌い方としては、一部母音を変化させるなどして抑揚の深い節回しを滑らかに歌うよう試みたり、技巧上大変興味深いアプローチが多い。

その節回しからの流れで、徐々に後半にいくに従い熱を帯びてくる歌唱は、じわじわと高音部にも手が届くようになり、落ち着いた穏やかさのみならずオリジナルバージョンで得られたカタルシスもしっかり提供してくれる。

LIVEで桜を歌う場合、どういった要素を勘案し、何が現実的なアプローチたり得るかを熟考した跡が如実に判る、工夫に富んだバージョンだ。

座ってピアノを弾き語る、というアピアランス自体も演出の一環だ。別に鍵盤を弾ける人は他にも居るのだから、愛のアンセムに引き続いて直立で歌ってもよかったようなものだが、こうやって座る事によって聴き手の意識と目線を下げさせ、このバージョンに漂う物憂げな表情をすんなりと納得させる。オリジナルからのメロディーの変化を、如何に自然なものとして聴かせるか、細心の注意が払われているのである。

現場で見ていると、円形の舞台が暗闇の中に浮かび上がり、それはそれは幻想的な風景だった。虚空はどこまでも、SC2のジャケットのように宇宙にまで続いていき、恐らくPVの先入観もあるのだろうが、涅槃にも届こうかという広がりを見せていた。

基本的なメロディーラインや編曲構成は大体同じなのに、ここがIn The Fleshと大きく異なる点である。彼の地では、すぐ目の前に居る光が暗闇の中手のうちに淡く輝く仄かな光を大切に育み昇華させ言霊としてこちらに渡してくれているような、そんな親密さを感じさせた。"舞台"が浮き上がって隔世感を出していた横浜アリーナとは全く真逆である。同じサウンドでも、それを響かせる空間の大きさ小ささで印象がガラリと変わる。やはりLIVEはその場に行く事で感じる事があるのだ。まだ行けていない方も、諦めずにまた機会を伺い、宇多田ヒカルのコンサート会場に足を運んで欲しい。見たこともない色の桜が、一晩限り咲き誇っているのを、その眼で見られるのかもしれないのだから。