無意識日記々

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未知数の道筋。

さて今回話題にするのは前回ちらりと触れた「日本語としての自然さ」の話である。

作詞における才能の発露とは、余人に思い付くべくもない言い回しや単語の組み合わせにおいてみられると時に考えがちだが、実はそういった特徴的な作詞術は一言でいえば「苦し紛れ」である事が多い。「どうしてこんな歌詞が思い付くんだろう」という一節は大抵、歌詞のストーリーではなく音韻の縛りや単なる語呂合わせ、語呂のよさに端を発する。

ヒカルの場合も例外ではなく、日本語として特異な音節の区切り方などは「そうせざるを得なかった」面が強い。恐らく、もしできるならもっと自然で流麗な日本語にしたかったのではないか。『な・なかいめのべ・るでじゅわき』なんかも、どちらかといえばそういう感じが漂う。

であるが故に、歌の歌詞の中で"差し障り無い日本語"を見つけた時、その一節が作詞のかなり早い段階で登場していたと推理するのは無謀な事ではない。初期であればあるほど、音韻の縛りが少ない為言葉をより自由に置けるからだ。

そういう視点に立って見た時、先日キプトラの2つのAメロにおいてキーセンテンスとなりえる二節、

『ホントは誰よりハングリー』
『毎朝弱気めな素顔映す鏡 退治したいよ』

の、いずれが"日本語として自然"かは、火を見るより明らかだろう。いやちょっと言い過ぎたか。でも、そうだよね、『ホントは誰よりハングリー』って、普通の日本語だけど、"弱気めな素顔"って言い回しも珍しいし、そもそも"退治"というのが妙に際立っている。なんなんだろう、そう思わないかい?

、、、という見方をしていると、実はこの2文で先にあったのは『ホントは誰よりハングリー』の方であって、とすると『毎朝弱気めな素顔映す鏡退治したいよ』の方は、いろんな韻の縛りに導かれて出てきた二次的なメッセージなのではないか、だとすると恐らくこの奇妙な『退治』ということばは、一回目のAメロの「大事と思うけど」と音韻を合わせるかたちで出てきたのではないか、、、

、、、そんな風に推理していくと、これまで私が描いてきた推理と真逆の展開に踏み込むからさぁ大変。果たして、どちらが正しいのか、次回そこらへんの議論に踏み込んでみたいと思う。ぶっちゃけると、現時点での私はこのあと何を書けばいいのかわからない状態だったりする。ホント、どちらの推理の筋道が正しいんだろうなぁ。次回までにゆっくり考えておくことにするわ。