無意識日記々

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字数と時間が全く不足したエントリ

殆ど聴いていないので詳しい事は知らないが、ここ10年位の邦楽Popsってえらく歌詞重視になっているように思える。90年代に色々なサウンドをみんなで試してみたけれど、結局日本人は歌詞が大事であり、音楽性はあんまり重要ではなかった…みたいな構図が勝手に浮かぶ。

「結局日本人のPopsはフォークになる」というのが昔からの私の持論で、結局ロックもダンスもヒップホップもみんなフォーク化した。GLAYなんて歌詞だけ取り出したら完全にフォークだった。素朴なメロディーに共感を得られる歌詞を載せる、いや、そういう歌詞に合うメロディーをつけていったというべきか。

最も異端だったのは小室哲哉である。彼は徹底してサウンド重視であった。歌詞も語感最優先。Can You Celebrate?なんてまともな英語の感覚があったらタイトルになんか出来っこない。楽曲の構造もシンプルなフックラインを2つ3つ組み合わせただけの、メロディーの覚え易いものだった。90年代の隆盛の象徴を異端と呼ぶのは不可思議かもしれないが、すぐには誰も真似出来なかったからその方向性のファンは総て彼が独占したのだ。彼の転落後、日本はそのままアイドルと歌謡曲とフォークの組み合わせという80年代までの"この国の伝統"に則っていわば"先祖帰り"を果たした。異端は結局異端に過ぎず、文化として根を下ろす事はなかった。

アニメソングもそういった"日本の伝統の一部"である。取り上げられる題材が幅広くなるにつれアニソン歌手がアイドル化していき声優もまたアイドルとして奉られるようになっていったのはアニメという文化がこの国の"伝統意識"の中から純粋培養されていったからに他ならない。普通のPopsと異なるのは、流行が外圧に左右されず、純粋にアニメの流行の推移からくる要請に対して応える形で発展してきた事だろう。そこには、時代毎の烙印が必ず押されている。

ヒカルがEVAに起用されたのも、如何に残テや魂ルフが神憑り的な支持を尚集め続けていたとしても、それはやはり90年代の歌なのである。21世紀に新劇版としてフレッシュに打って出る、しかもメジャー資本、メジャー代理店を巻き込んでの展開であるから00年代をよく知る人間である必要があった。

ここで問題になってくるのは…という話は長くなるのでまたの機会に持ち越す事にしてすっ飛ばすと、何が言いたいかといえば目まぐるしいアニメの流行のサイクルの中ではBeautiful Worldですら既に"古臭い"のかもしれないのだ。もう5年も前の曲である。これを2012年の秋に流すとなれば、00年代の空気を入れ替えねばならない。楽曲が古臭いというより、序で流れた楽曲であった事、破で流れた楽曲であった事それ自体が既に確立された事実として立ちはだかっているのである。いわば、自らの手で歴史を形作ってきた事で歌を過去のものにする力がはたらいた、という時代の牽引者たるEVA独特の事情である。大御所としての存在感を発揮しつつ、現在のアニメの流れに大きく影響を与えられる。なんだか宇多田ヒカル自身ともシンクロしそうな話だが、そういったハードルを今回どう越えてきたか、その点について興味が尽きないのである。