一方ヒカル本人はといえば、最近はどうやら能楽を楽しんでいるようで、恐らく、これは勝手な想像だが、「日本語の歌」のルーツを探る一環なのではないかと思われる。前も書いたように「日本の心」と呼ばれる演歌も演奏は基本的に洋楽がルーツにある。純粋にただひたすら日本語と向き合ってきた、いやもっと言えば"日本語から生まれた音楽"とはどういうものかを知る事によって、歌詞の書き方と、それに合うメロディーを探っているのではないか。
人間活動中にどれだけ音楽的な側面に触れているかは不明だが、ここまでドップリ浸かっていると離れている方が不自然だろう。漫画家でも、仕事の合間をぬって休憩中に何をするかといえば気ままに落書きしたりしている。絵を描く仕事の息抜きが絵を描く事だなんて常人からは理解し難いが、そこまで染まれば天晴れである。なので、たまにヒカルが音楽に触れている事を匂わせる呟きをしているが、だからといってそれが即復帰とは限らない。仕事か否かとは全く別次元と捉えるべきだろう。
日本語の歌のルーツを探って能楽にまで辿り着いた、と言っても別にヒカルの書く歌詞がいきなり和風になったりする訳ではない。ルーツを辿るだけ辿ったら、そこからまた現代に辿り返してくる事だろう。前にオリジナリティとは「辿れる事」だと書いたが、そういうルーツを現代に向けて辿っていった今という時代にこうして生きる宇多田ヒカルの存在こそ個性なのだ。ルーツを辿るとは、そこから何かネタを拝借してくるとかいう事ではなくて、世界の中で自分はどこらへんに居て、どういう存在であるかを知る事なのだ。知っただけでは、自らの個性に変化はない。しかし、今ココからどっちにどういう風に歩んでいくかの指針は与えてくれる事だろう。それはまさに、Single Collection Vol.1の表紙詩に書かれている通りだ。過去からの歌声が、或いは愛のアンセムを引くなら名も無い魂の歌が、ヒカルを在るべき場所へと導くのだ。今のありのままは変わらなくとも、次の私がどうなるかは、誰にもわからない。