無意識日記々

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折に触れて繰り返してきたテーマ「日本のうた」

ANGRA民族音楽を大胆に取り入れたのは1996年の2ndアルバム「ホーリー・ランド」からで、時を同じくして同郷のSEPULTRAもまたトライバルなリズムをフィーチャーした「ルーツ・ブラッディ・ルーツ」というアルバムを発表、この頃からメタルファンがトライバルという言葉を意識するようになってきた。

民族音楽、トライバルといった言葉を覚えたからといってリスナーとして急に音楽について博識になれるわけもなく、「今のリズム、サンバっぽくなかった?」みたいな緩く浅い認識で聴いていただけだった。しかし、ある特定のパーカッションを使うだけで「ブラジルっぽい」と言わせるのはそれだけサンバなどのリズムが世界中に"ブラジル音楽のアイデンティティ”として強く認識されているという事を意味していた。

では例えば。世界中の人に「日本っぽい」と思って貰える音ってどんなものがあるのか。琴や三味線の音なんかはいいところまで行きそうだが、シタール二胡と区別がつく外国人がどれほどいるか。寧ろ今やアニソンの方が「如何にも日本っぽい」と思われているのかもしれない。或いはBABY METALかもしれない。結構"コレ”というものが無いんじゃなかろうか。

Utadaも昔その「日本っぽさ」をサウンドにどう取り入れるか、いやそもそも取り入れるべきなのかという点でかなり苦心していたように思う。デビュー曲に当たる『Easy Breezy』では歌詞に『コンニチワ サヨナラ』と入れてジャパニージーな所をアピールしていたが、知的ではあったものの効果があったかはわからない。『FYI』でも歌詞に『Tokyo』を入れてはいたが、それもそこまで強いアピールではなかった。

歌詞の面ではそういった幾つかのアプローチはあった。ではサウンド面となるとどうか。最も秀逸なのはやはり『Devil Inside』の大正琴サウンドで、あのセンスは抜群だった。しかし抜群過ぎた為自然過ぎた。あれで「おぉ、日本のサウンドを取り入れているな」と感心した海外のリスナーはどれ位居たのか。大騒ぎしたのはマニアか評論家かという感じじゃなかったか。大多数のリスナーは「Cool !!」の一言で済ましていたと思う。

ここから更に踏み込むべきなのか──というのが今後の課題な気がしている。今までも折に触れてこのテーマは論じてきたが、やはり「日本語」というものから"自然に生まれる”メロディーとはどういうものなのか、というのをどこまで極められるかでヒカルの歌の進化の具合が決まっていきそうな気がしているからだ。故に日本という国が滅びてしまうと勿体ないし、日本語の話者を確保していかないとヒカルの歌を歌い継いでいってくれる人々も途絶えていってしまうだろうなといった事が気に掛かるのだ。逆に言ったらそれさえなければこの国…いや、まぁそんな話はいいやね。うたの話を続けよう。