「そもそも論」を書いておいた方がいいのかもしれない、と思い直した。基本的にこの日記は「自分の読みたい話を自分で書く」為のものだから、書いたものが不人気でも自分が読んで面白いと思えれば大体満足なのだが、何が不人気かを把握しない事が有意義という訳では全然ない。知らないより知っている方がいい。
多分、歌詞の音韻の技法とか歌唱の細部の技術に関する話は不人気だ。寧ろそっちより、宇多田ヒカルの社会的な立ち位置、みたいな大きな話の方が喜ばれるだろう。単純に、技術的な話は何を書いてあるかよくわからず退屈だ、というのもある。私の文章力が足りないのだなぁ。それは素直に悔しいが、そもそも宇多田光の持つ"技術"自体が、あんまり興味を持たれていないのかもしれない。それはゆゆ式自体、もとい、由々しき事態である。
一言でいえば「神は細部に宿る」でファイナル・アンサーなのだが、もっと言えば、宇多田光の人生の1/3位は技術論である。もう少し砕けて言えば「歌の工夫」だ。どんな工夫を施して歌を作り、歌を唄うか。それを悩み続けて12年間頑張ったのだ。その苦労の一端を、光が何を考えて作詞し、何を考えてそんな風に歌ったのか。それを知りたくてこんな事を書いている。
ファンとしてのアティテュードの問題でもある。人は美味しい料理を食べた時、その次に何を思うか。「どうやって作ったんだろう?」とか「シェフはどんな人だろう?」と思うかどうか、だ。光に対しても同じ事が言える。いい歌を聴かせてもらって「よかったね」それっきりで終わるか、そうならないか。この日記を読んでいる貴方は間違いなく「そうならなかった」からそこに居てくれるのだろう。
ならば。光が何を苦悩し何と格闘し何を成し遂げてきたのか、興味があるのなら、出来るだけ細部に穿ち入る事が望ましい。人によっては、出てきた料理の食材すら知りたがらない人も居る。何を食べたかは重要ではない、美味しかったという結論だけあればいい、という。そこまで割り切れているのなら逆に清々しく、またこれも望ましい。ただ、何を思うか、こういった分析や解析自体を毛嫌いする人も居る。好き嫌いは仕方がないが、それは宇多田光の人生の音楽創作活動そのものの否定だという事は自覚しておくべきだ。光は、兎に角大量の、ありったけの思考を、特に作詞と歌唱にぶち込んでいる。フィーリングとエモーションが大切だなんて死ぬほど理解している。それを、どうやって「表現する」か、「カタチにする」か、それに腐心し続けて今年30歳を迎えたのだ。その詳細を理解すべきだなんて思わない。ただ、その苦労を否定して歌と歌手の何を賛じるというのだ? 歌が天から降ってくるとでも言うのだろうか?
…たまに降ってくるから侮れない…
光は分析的である。解析的である。彼女がここでこう唄わずああ唄うのには必ず理由がある。何故歌詞のこの部分にこの言葉をあてたのか、我々には及びもつかない大量の思考に支えられてその結果は導かれている。私の分析系のエントリーは、その数百万分の一だけでも追体験したい、光と同じ苦悩を知りたいという欲求から生まれている。数百万分の一というのは誇張ではない。答えが既にある状態では苦悩の質感なんてわかりっこないのだ。しかし、我々が光の歌から受ける感銘のデドコロくらいは、偽らずに知っておきたいと思うのである。あー暑苦しい(笑)。