音楽の三大要素といえばメロディー・リズム・ハーモニーだが、この三つ目のハーモニーというのは独特である。早い話が一度に2つ以上の音を出すという事だ。ピアノやギターであれば音を鳴らす部分が複数あるのでハモれるが、管楽器はなかなかそうはいかない。これが人の声となると尚更である。基本的に人の声は同時に一つしか鳴らせない。世の中にはハミングをしながら口笛を吹ける人も居るらしいけどね〜。
ヒカルの場合アルバムでは分厚いハーモニーを自らの声で重ねているがLIVEでは頑なにバックコーラスを入れず自分の声の録音物を使用している、或いは最後の最後にGoodbye HappinessでSynergy Chorusを起用して他人の声のハーモニーを大々的にフィーチャーした、という話は私も毎度している。
確かに、人は口の他に手も足もあいているのだから楽器を弾きながら歌えばそこにはハーモニーが存在するといえるだろう。しかし、人の声同士のハーモニーは、器楽万歳インスト至上主義な私ですら、やはり特別な何かを感じざるを得ない。ヒトという音を鳴らす管が共鳴し合う姿は宇宙の真実を一つ言い当てている気がしてならないのである。
そこらへんを、"シンガーソングライター"宇多田ヒカルはどう考えているか突っ込んで訊いてみたい。彼女の歌手としての圧倒的なアイデンティティは独唱にある。そもそも"みんなで唄う為の歌"というのを作らない。最もそれに適した歌がみんなのうたで歌われたぼくはくまだというのは共通認識だろうが、この歌の歌詞の孤独感は群を抜いている。挨拶する相手まくらさんだからな。それは誰も居ない世界に連れて行って欲しいと唄う虹色バスもそうだし、誰も居ない家に(とは歌詞では言及してないけどな)帰ってくるテイク5もそうだ。こういう世界観にハーモニーという概念はあまり馴染まない。音楽的に必要になった時は自らの声を重ねるだけだ。
世界に終わりが来て、自分だけが取り残された時人は唄うだろう、と私は勝手に考えているのだが、誰に聴かせるでもない、永遠にハーモニーから隔絶された歌というのは一体何なのか、という問いに対してヒカルの歌は、答えは出さないまでも何かこう"それについては言えることがあって"という程度には存在感があるような気がする。「ひとりのうた」としてみた場合、ヒカルの存在はどこまでも際立つ。どこまで行っても「みんなのひとりのうた」なのだろうか。
私はといえば、なんかそっちと全然違う。メロディーは2つ以上を組み合わせて響かせるのが楽しい、とどうしても思ってしまう。独唱すら、静寂との共鳴だと解釈したくなる。この哲学の違いは埋まりそうにない。今の光以上に、私は「独りで居たい」と願うタイプだと思うのだが、ハーモニーのない音楽は何か満たされないと思う。私の言葉でいえばそこに「光がない」のだ。ハーモニーとは、私にとって輝きである。輝きそのもの、光そのものである光には、改めてそれを欲する理由がないとでも言うのだろうか。ちょっとこの点に関しては、まだまだよくわからないんだよな。