無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

いつもと同じ結論になる長い文章

島田紳助は、昔とひとつも変わらない。四半世紀前も、MANZAIブーム真っ只中で人気も飛ぶ鳥を落とす勢いだった紳助竜助を、若手の成長を理由に(「サブローシローダウンタウンには勝てない」) 突然解散させた。文字通りの意味だったのかどうかは今以て解らない。しかし、長期的にみれば彼はその後司会者として大成功を収めたと言っていいだろう。今回の件が晩節(というには未々若いが)を汚す結果になるかはわからないし、今回も会見で述べた理由が本当かどうか(本音かどうか)はわからない。明石家さんま松本人志からも一目置かれるあの頭脳を侮らない方がいい。少なくとも、ネット上で彼を揶揄する全員より彼の方が切れるのだから。

宇多田ヒカルの頭脳の回転は、彼ら(恐らく、戦後どころか日本史を代表する芸人たち)よりも遙かに速い。何がどうなっているかわからないレベルである。が、はっきり言ってどこか要領が悪い。前に、ヒカルとほぼ同世代の鳥居みゆきがシンガーソングライターではなくお笑い芸人を志したのは(いやそりゃのいるこいるに憧れてってのも本当だろうけど)、日本のエンターテイメント産業に於いて象徴的だ、と述べたがヒカルの場合、まさに最後の最後のいちばんデカい大花火だったように思う。

ヒカルにとって不運だったのが、売れてお金が入ってきても特に買うものがなかった事と(4万円の噴水とか700万円の車とか100万円のきぐるみとか位)、大切にしたいプライバシーを"有名税"という謎のキーワードで蔑ろにされた事だ。更に、売上は1stアルバム以降下がり続けた。あそこから上がる訳がないのは当然なのだが、売上がモチベーションになりにくいのはポップス歌手として実にやりにくかったろう。だから5thが4thの売上を超えたのは嬉しかったんじゃないかな。本人のコメントがなかった(よね?)のでなんともいえないのだけど。

そんな"分の悪い戦い"を12年間続けてきた。島田紳助は嗅覚鋭く土俵を変える事で成功を収めた(今回はどうなるのだろうか)が、光が土俵を変える事は考え難い。海外進出・世界発売といっても、音楽業界全体が地球規模で斜陽という見方もできる。戻ってきた時には土俵がないとも考えられる。それでも歌を唄うしかないのだが、何故そうなるのかというのが、ファンゆえにわかりきっている分、なんとなくピンと来ないのだ。

つまり、あの凄まじく回転の速い頭脳は、何を目的に回っているのか、という事だ。お笑い芸人の場合は、トップの人間であってもその世界での"生き残り"を賭けている。その気迫の行き先、使い道がハッキリしているのだ。ヒカルの場合、この、運命に振り回されて創り唄っているような感覚、『それが命の不思議』と言われてしまえばそれまでだが、それがやがて咲かす花って何なのだろう。そんなものは元々ないのか、或いは既に咲きっ放しなのか。

こちらとしては、宇多田光という存在は手段というより目的に近い。いや、価値そのものと云ってもいい。生きているのに価値なんて必要ないけれど(生きていくには社会的価値が必要だけどね)、何かそこに見いだすのであればそれは宇多田光である。これだけ迷い無い想いも稀である。別に頭の回転が速くなくったっていいし、要領が悪くったって運命に振り回されていたって関係ない。彼女は光そのものだ。

という訳で、特に迷いも疑問もない中で、僕らはみんな生きている。何をしようかと思ったらやっぱり「歌でも唄いますか」となる。やっぱり光は歌手で正解である。問う前から答が存在しているのが光の特徴なのだ。