無意識日記々

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「人として」

「人間活動」のいちばん対外的な弱点を敢えてわざとらしく挙げてみるとそれは「一般人は2年も5年も本職を休んだりできない」という点だ。皮肉な話だが、人間活動に入れる状況というの何よりもアーティストならではなんだな、といえる。

楽家は本来、年単位で活動を休止して創作意欲を高めるのが普通だ。ちょっと日本の邦楽シーンのみんなが働き過ぎなのである。「今から作るアルバムは通算14作目なんです、と海外のスタジオで言ったら"君は一体何歳なんだ"と呆れられた。」なんてエピソードもあるが、どうにも日本人の文化では音楽家、特に作曲家に対する理解が低いのか、常に働いていないと白い目でみられる(は言い過ぎか流石に)ようにも思う。そこらへんの理解が進めば、もっとシーン自体が活性化するかもしれない。

…というのが私の見解だ。なので、ヒカルがこうやって長期間アーティスト活動から距離を置くのは大賛成である。

それを前提として意地悪をいえば、「人として」というのが「普通にみんながしている事が出来るようになる」という意味ならば、何年はおろか数週間休む事すら憚られよう。そんな事学校や会社でやったら今度こそ白い目でみられる。

ただ、ここらへんは"お国柄"というのもあるのだろう。中高生でも夏休みが3ヶ月、という国もあるし社会人でもバカンスを3〜4週間とるのが普通な国もあるそうな。日本じゃ有り得ない。

そう、日本。ここでは休む事は悪徳とされている。言い方キツいかな。でも美徳の反対語でしょう。この国に居ては、アーティストは人間活動に入れないのである。「人として」と言うなら「まず休まず働け。話はこれからだ。」となる。そういう文化風土なのだ。今はゴールデンウィーク真っ只中だが、10連休の人は羨ましがられる。その程度で、と思う他の先進国の皆さん、という構図なのかなー。

だから光が主に英国や米国で人間活動に励むのは何の問題もないと思うが、日本に居ると何らかの労働か勉学、即ち「社会的に是とされる活動」に励むように、という心理的圧力がはたらきそうなので、ボランティアでもない限り日本には居ない方が人間活動も捗るかもしれない。これもまた、言い過ぎかな。

興味を惹かれるのは、前にも触れたがこの「人間活動期」が今回一回限りなのか、また時間を置いたらやってくるのか、という点だ。人として成長するべきだった側面をしっかりと成長させ、ある意味"人として追い付いた"のならば、もう再び人間活動期に入る必要はないだろう。或いは、アーティスト活動を続けているとどうしてもそちらが疎かになってしまい、やはり定期的にオーバーホールしなくてはいけないのかもしれない。これは、わからない。ひょっとしたら光自身もそんな展望はないかもしれない。

ここらへん、問題が絡み合っている。「人間らしさ」、なんていう風に括ると、実は結構土地や文化、習慣や流行によってかなりのところまで左右される概念だという事がわかってくる。例えば、私より幾らか上の世代には「男子厨房に入るべからず」なんて言葉もあった。本来の言葉の真意はわからないが、これはいつも男が料理を出来なくてもよい言い訳に使われていた。成人男子は炊事が出来なくても1人前として認められていたのだ。私個人の感覚からいえば「自分で食べる分位賄えないって人としてどうなの」とイヤミのひとつも言いたくなるのだが、まぁ兎に角、光の言う「人として」の具体的なイメージが、どこらへんまで普遍的で、どこらへんまで文化文脈依存的なのかは、ちょっと興味のある所である。まぁこちらの本音としては、どっちでもどうでもよかったりするんだけどねー。(台無し)