無意識日記々

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「第三者の眼」

Hikaruはかつて(5年前かな?)、「フィジカルは大事。読んだ本を書棚に並べて確認する作業とか手触りとか云々」なんて趣旨の事を言って、ソフトを物理的に残す意義を強調していた。それには全面的に同意だが、だからといってフィジカル不在の生活(って変な表現だなー)がいつまでも物足りないものなのかというとそうでもない。ここでも前に述べたように、例えば配信で購入した音源でも、自分で書いた感想なりレビューなりをアーカイブスとして書きためていけば、それが書棚の代わりのようなものを果たすようになる。しかもそれは、インターネットを通じて他者と共有出来る所がフィジカルな書棚と異なるところだ。

そして、その共有力は「次の展開」、つまり、新しく価値観を共有できる人たちとの交流や、そこから教えてもらえる新しい作品との出会いなどを齎してくれる。この強力さをここ15年程で多くの人が味わってきた。

一方で、「純粋な個の時間」は確実に減った。嘗ては「本を読む」というのはかなりパーソナルな活動だった筈なのだが、今はもう他人の感想が気になったらすぐに検索出来てしまう。ある意味、読書を通じて得られたパーソナルな体験がすぐさま社会的な価値付けにすぐ還元されてしまうという"危険性"も孕んでいる訳だ。

この"危険性"にどう対処するか。Hikaruの言うように「フィジカルを大切にする」というのも一興だが、そもそも本とかレコードというものは、自分以外の誰かが作り出した作品な訳で、最初っから社会性の種を孕んだものだ。そこにある特殊性というのは、本に顕著だが、著者のパーソナルな体験を文字を通じて他の人のパーソナルな体験として歳発現させる事にある。つまり、実はフィジカルは関係なく、本来の基本「対話」に立ち戻れば、インターネットを通じた交流でも「パーソナリティ」の回復は可能であるという事なのだ。

導かれるべきは、寧ろ、他者と他者の意見を比較・検討できてしまう事にある。1と2までは個人的だが、3からは社会性の問題が出てくる、と言い直せばいいか。ただの読書なら電子書籍でも可能だが、そこから「第三者の眼」までの距離が異様に短くなった点が問題なのだ。ややこしいテーマだな。次回へ続く。