無意識日記々

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皆他者か

ファンの存在はモチベーションにならないのだろうか、という論は前にした。必要条件ではあるけれど十分条件ではない、という感じだ。ファンが居なければ復帰しないだろうが、ファンが待っているからといって必ず復帰するかといえばそうとも限らない。

何故こんなに不安なのかの話もだいぶ前にした。一時代を築き一生遊んで暮らせる大金を持ちながらなぜマスメディアに苛まれる生活を自ら選ぶ必要があるのかと。今すぐにでも欧州の片田舎に隠居して悠々自適に暮らせばよい。イタリアだわなそりゃ。

この、「働かなくてもよいでござる」を凌ぐのは、かなり難しい。殆どの場合それは強欲や夢といった言葉で正当化される。つまり、働く事で背負うストレスをだ。そこで「愛」と言い切れれば最強なのだが、なぜかHikaruはそうは言わない。

彼女が音楽を愛している事は疑いがないし、音楽はそれ以上に彼女を愛している。相思相愛の間柄なのだから末長く。そこまではいい。そこに「大衆」が絡んでくるからややこしくなる。

「Pop Musicは他者の音楽だ」というのは渋谷陽一の名言の中でも至高である。Hikaruは放っておいても、一生生まれてくる音楽と相思相愛で過ごしていくだろう。問題はそこではない。それを私達に聴かせてくれるかどうか、そっちが大きな問題なのだ。

つまり、不安定な不安の主役、正体は我々自身なのだ。Hikaruに問題がある訳ではない。我々がHikaruの音楽に対する他者としてしっかり存在していれば、何も不安はない。しかし、そうではない。そこが弱いから、Hikaruのモチベーションの話になる。強ければHikaruがそこの時点で戸惑う事もない。

我々はどう在ればよいのだろうか。答は無い。Hikaruが「あるべき姿」なんてものを求めていないからだ。そういう意味では、我々は期待されていない。居ても居なくても―というと行き過ぎだが、誰かが居ればよい、という程度ではあるかもしれない。来る者は拒まず去る者は追わず、というのは、つまり無関心である。引き止めたいという気持ちがどれだけあるのか…シンプルに、「この人たちに気に入ってもらえれば嬉しい」という像が鮮明に結ばれないのである。

それはそれでいい、というかだからこそ伝統の「私だけのヒカルちゃん」の感覚が出来上がる。彼女はどうして私の心をここまでよく知ってくれているのだろう、私の事をわかってくれるのはヒカルちゃんだけ…そう思った事のある人は数知れず。

一言で言えばそれはトリックでありレトリックであり、勿論リリックでもある。マジックなのかもしれないし、実際ファンタスティックなのだが、つまりは特定の他の誰かに宛てたようには思われない、それを自らの問題として捉えるメンタリティと呼応するように、リリックは組まれている。もっといえばリスナーとして想定されているのは誰でもなく、従って全員たりえる。皆の音楽ではあるが他者の音楽では"ない"、のだ。ヒカルの歌は。なので、あれをPop Musicと呼ぶのは間違いである。当事者としての感覚を覚えられる人にのみ呼応する。


だから虹色バスの歌詞には必然性がある。『everybody feel the same』―「皆同じに感じてる、"誰も居ない世界へ私を連れて行って"と。」 
ここまで直接的に他者の存在を拒否或いは忌避しながらも主語はeverybody, "皆"、"誰しも"たりえるのだ。皆ここに居ながら他者が居ない―どういう事なんだか。

脳みそが捻れていきそうだが、つまり、こういう精神構造でPop Musicに挑もうというのにそもそも無理があり、そこにはヒカルのリスナーが居ない。このミスマッチをどこで改善できるのか。不安定な不安はそこで回収されるだろう、もしあなたがそれをお望みならばの話だがね。