無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

今一度考え直すいつものテーマ。

機械翻訳すればそれである程度成立するコンテンツと、そうは問屋が卸さないコンテンツと両方ある。日本のアニメが海外でも受けるのは、質が高いのが前提だが、字幕で補えば何とかなる、というのが大きい。日本で放送された30分アニメが翌日には英語やスペイン語フランス語の字幕をつけてネットで放流されている。それだけ需要があるという事だろう。

歌の場合はそうはいかない。私が英語はおろか日本語も満足に読み書きできない頃テレビで「英語の歌の字幕に日本語訳」を観た時の「何やってるねん」感は相当なものだった。今ならそれもまぁありかなとは思えるが何を歌ってるかの前に何て歌ってるかだろうと思ったものだ。意味だけ訳しても、歌の場合、詮無い。

しかし海外の宇多田ヒカルファンは、日本語の歌詞をそのまま受け入れて楽しんでる。これがピーター・バラカン言う所の「ワールド・ミュージック扱い」だというなら、そのポテンシャルに比して随分と扱いが小さく、その扱いの割に随分ファン層は分厚い。欧米にそれぞれ数万人単位でファンベースがあるのだから商売としては十分通用する。

英語がグローバルスタンダード、デファクトスタンダードな言語である事は紛れもない事実で、国際化はおろか国境無効化すら感じさせる昨今、英語が自在に操れるのにコンテンツを英語で発信しないのは商売上損だという意識は強い。しかしHikaruの場合、オファーに合わせてリリースするスタンスだからか、なんだかんだで日本語の活動に比重が置かれている。人数的にも金額的にも歴史的にもそれが妥当なのだろうが、それによって可能性が狭められているという事はあるのだろうか。

逆転の発想で、日本語の歌が世界規模でクラスタとして認知されるような事があったら…といういつもの妄想が頭にもたげるが、今一度その点について次回考えてみたい。