無意識日記々

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くくくままま

ぼくはくま」のハイライトは"ママ"だ。あそこだけ歌い方を変え、いつもの宇多田ヒカルに戻っている。LIVEで正式に(セットリストに入った状態で)初めて披露した時、よりによってこの部分を間違えて歌ってしまった。翌日の『今度は間違えないぜ!』と言わんばかりの歌い方はその笑顔と共にとても印象に残っている。歌詞が画面に出ていた為、意地でも間違える訳にはいかなかったし。

これは、ただのケアレスミスであり、深く考える事はしない。とはいえ、逆には考えてみる。例えば他の曲で、いちばん肝心な所でこんなミスをするだろうか。Flavor Of Lifeのサビで"the flavor of love〜♪"と歌ってしまうだろうか。それもないような気がする。

くまとままは密接に繋がっている。時には同一視してもいい。なのに一人称が"ぼく"、つまり男の子なのは、視点が逆で、光の方がママ役で、くまちゃんの方にこどもの役を割り当てているからでは、ならば…というのがこの前までの話だった。その線で考えると、"ぼくはくま"で『ママ』だけ普段の宇多田ヒカルの声で歌うのは、そこだけ視点が逆転していない、という風に捉える事も出来る。いわば、ここで着ぐるみのアタマを取るのだ。HEART STATION(とレコ直)、WILD LIFE、GOODBYE HAPPINESS Music Videoと、気づけば要所で何度かアタマ取ってるけど、それはギガントを制作したお陰で物理的に、視覚的に可能になったというだけで、その心理構造は元から存在していた、のかな。そこはちょっと判然としない。『くく くま まま くま』という箇所は、反転しているようでもあり、押し出されるように地続きでもあり、アタマを脱ぐ、という行為と完全に一致するようでもない。しかし、そこまで『ぼくはくま
とギガントの格好で歌っていた(実際には着ていたら歌えないんだろうけど)ヒカルが、あそこでアタマを取ってヒカルに戻って『ママ』と歌う、というビジュアルは、何と言うのだろう、切ないね。