無意識日記々

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「ぼくはくま。あなたは誰?」

をををっ、ツイッターに遂にくまちゃん登場か。これはフィアンセがバイという設定でくまちゃんntrr展開あるで…

ちゅうわけで安心。くまちゃんによる癒やしは早い話が自分の肉体性を乖離させた自己自浄作用なので、見た目のプロセスはどうあれ物事は快方に向かっている。寧ろ、問題があるのにくまちゃんが出てこない方が怖い。最早あれはひかるの人生の一部なのだ。

それはまぁ、私も似たような事をしている。光の事をヒカルと書いたりHikaruと書いたりひかると書いたり宇多田さんとか宇多田氏とか書いたり…同一人物を各々異なったペルソナで見る。多重人格とまではいかないが、私にとって宇多田光はそういう意味において"唯一無二の存在"とは違うかもしれない。多分、「私」との関連性が実質的に皆無なのだからだと思う。彼女は私の事を個人的に知らないのだから。

たくさんの呼び名を持つ人も世には多いが(例:ゆかちん、つぼ氏、ぼんちゃんetc.)、ある1人の人から複数の呼び名で呼ばれるケースはぐんと少なくなる。ある1人と1人の関係性は、その意味において一位に定まる。そして、他の人と会う時はまた別の顔、別の名前になる。

古典的な話だが、だから「君と僕」「あなたとわたし」「おまえと俺」みたいな、二人称によって"特定の1人の人物"を指す関係性は、特別だ。これは、その場限りの呼び名ではなく(「あ〜そこを歩いてる君ちょっと待ちたまえ」の"君"ではなく)、普遍的な呼称としての呼び名である。まぁ、わかりやすく言う場合はダーリン&ハニーですかな。

そういう意味では、"歌"という文化はそういった二人称的関係に強い。あなたがわたしにうたいかけるからだ。芝居などとは違って、常にこちらに向かってメッセージが放たれる。漫才では相方の目を見るし、落語は枕が終われば観客はおいてきぼりだ。ケーシー高峰萩本欽一は、観客という"大衆"に向かって話し掛ける。個人から個人へという"錯覚"を生み出すには、やはり歌がいちばん強い。

だから、“ぼくはくま”の歌詞は興味深い。ライバルや前世やまくらさんは出てくるが、君やお前やあなたは出てこない。でも、いやだから"ぼくは"くまなんだろう。そして、最後の最後に、恐らく"あなた"への萌芽であろう"ママ"が出てくる。この"ママ"は、限り無く"You"に近い。いわば、ぼくはくまは「歌が生まれる瞬間の歌」なのだ。或いは「歌が生まれる直前の歌」かもしれない。それを物理的に担うKuma Changとギガントには、これからも度々登場して貰わなくては。そこから歌が生まれてくるというのなら。