無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

LIVE is filled with "CREATIVE"

Hikaruが自分で作った曲を滅多に聴き返さないのは、もう何の手直しも要らなくなるまで作り込んでやる事がなくなった状態まで突き詰めた"完成形"にまで漕ぎ着けてしまうからだが、それはあクマでスタジオ・バージョン、つまり、我々が家で聴く分には、という条件付きだ。その完成形がLIVEで映えるか否かはまた別問題である。

Hikaruの曲の中にも、みなさん「ライブ・バージョンの方が好き」という曲があるかもしれない。実際、そのままLIVEで演奏してもどうかなぁ、という曲は幾つもある。意外な事に、例えば、Hikaruの曲の中でも最もヘヴィな"嘘みたいな I Love You"はそのままではライブ向きではない。一つには、そのヘヴィネスの由来が観念的で、余り肉体的なフィーリングと直結していない事、もう一つは、サウンドのバランスを取るのが難しい事だ。前者については感覚的な問題なのでここでは取り上げないが、後者については興味深い。ライブでは、その曲単独のサウンドだけでなく、他の曲とのバランスも考えねばならない。そこがスタジオバージョンと異なる。

ヒカルの5では、同曲はみるからに"異質"であった。ありていに言ってしまえば浮いていた。それではいけない。

実は、その反省は既にUtada United 2006で活かされていた。EXODUSパートのアレンジである。DEVIL INSIDEをアッパー・チューンにせず、リズムを一旦削ぎ落としてムード満点の導入部としてきた。あの流れがあるから、Kremlin DuskからYou Make Me Want To Be A Manへの爆発力が活きたのだ。唐突に最初からYMMを歌っていても浮いていただろうな。今なら、嘘愛も例えばShow Me Loveの隣に置くなどしてリアレンジを施せばぐっと響きがよくなるだろう。いちど聴いてみたいものだ;

今挙げた点などは一例に過ぎない。ライブで楽曲を披露する注意点は幾らでもある。スタジオバージョンとしては完成しているかもしれないが、ライブで歌うとなると毎回曲順が異なる訳だからそれに従ってライブ用のアレンジは毎回変えなければならない。まさに生き物のように変化し続ける事を強いられるのがライブの魅力である。故にライブ・バージョンに完成形なるものは存在しない。歌われ続ける限り変化と成長を続けてゆく。

後は、Hikaruがライブをやりたいかどうかだ。ひとえにすべてはこれにかかっている。であるならばHikaruはこれからも自分の"スタジオでは完成させた筈の曲"を聴き直して解体し再構築する作業に従事していかなくてはならなくなる。でないならば、いつかHikaruは自分の曲を忘れていくだろう。人の記憶力は非情なのだ。それが合理的だったりするんだけど。

どっちだろうね。作詞・作曲は、ひとりでも続けられる。しかしライブは観に来てくれる人が居てなんぼだ。それが途切れるなんて嘗てのプレミアム・チケットの女王に限って、あるのだろうか。勿論、それ以上に、Hikaruが、いつかライブ・コンサートに疲れて、スタジオ内での創作活動に専念する日が来る可能性の方が高い。そうならないように、我々は、ライブコンサートも随分と創作的な活動なんですよとアピールし続けていかなければならないだろう。その為には、ライブ・バージョンを聴き込み、しっかりと「あの曲はライブの方が好きです」と伝えていかなくてはならない。それが、クリエイターとしての"ライブへのモチベーション"を上げていく秘訣なのではと密かに思っている。その場が創造的であるとさえ知れば、必ずクリエイター魂はそこに戻る事を欲する筈だ。ただ昔の歌をなぞるだけならHikaruは途端にライブへの興味を失う…かも、しれない。毎度の事ながら心配のし過ぎなのだが、これには我々の一生の生き甲斐がかかっているのだ。いつ
までも末永くHikaruがライブ・コンサートを望んで開いてくれるよう、祈り続けていきたいっす。