無意識日記々

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声のパーツのミルフィーユ

うーん、ライブの話になると全く収拾がつかないな。でもまぁ、前回の続きを書いてみるか。

Hikaruのアルバムで聴かれるヴォーカル・ハーモニーは、一部を除き総てHikaruの声のみを重ねたものだ。したがって、"chorus"とクレジットされていたとしても(実際は"backing vocals"が多いと思うが、確認はしていない)、それは日本語でいう"合唱"とは異なるものである。

一言でいえば、"みんなで歌う為に作られてはいない"という事だ。人と人の声の調和、という概念はあまりない。勿論こういう形態は録音機器の発達なくしてはありえなかったもので、それまではそれこそ双子のデュオに頼るしかなかっただろう。

そういう、"声を素材として切り貼り編集した挙げ句の姿"がスタジオバージョンの完成品なのだから、それを模倣したライブにおいてバッキング・ヴォーカルを機械から出力するのは寧ろ正しい。真ん中に立つ人間がひと連なりのメロディーラインを歌うのとは異なる、パーツとしての声の層のミルフィーユなのだから。

ただ、それを言い始めてしまうと、声以外の他の楽器をなぜライブで人間が演奏しているのか、となる。別に違いはない筈なのだが、そうやって器楽面ではスタジオバージョンとの差異を生みつつ、バッキングヴォーカルはスタジオバージョンに出来るだけ忠実に、というのは出来上がりの音像にややもやもやしたものを残すように思う。

或いは、技術の進歩がそういった違和感を解消するかもしれない。あらゆるバッキングヴォーカルパーツをリアルタイムで選択しながら即興で演奏のできるDJ・マニピュレーターが現れたのなら、それはもう新しい楽器であろう。ただ、それも突き詰め過ぎると、Hikaruが「アイコラみたいで気持ち悪い(笑)」とか何とか絶賛していた人力ボーカロイドのようなサウンドが出来上がる、かもしれない。ここでも結局バランスの問題になるだろう。

どの話をしていても、最後は、「Hikaruの曲のスタジオバージョンは、ライブでプレイされる事を余り想定していない」という所に行き着く。スタジオバージョンをレコーディングする時でさえ、「誰だこんな歌うの難しい歌書いたのはっ! 私か。」と不満を言いたくなるような楽曲だらけなのだ。

ここに、ポイントとなる食い違いがある。古くからのPopsファンの多くは、CDの音源を単なる"記録"と見做しており、「コンサートで聴けるサウンド」こそが"本物"であるという風に無意識のうちに捉えている。でなくばCDの二倍も三倍も値段のするチケットの方がCDより売れるだなんて事態にはならない。しかし、Hikaruにとってはスタジオバージョンこそが、いや、彼女の頭の中にあるサウンドこそが"本物"なのだ。まずそこから話を始めないといけないのかもしれない。