無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

悲しみと実感と

急に変えるのではなく、少しずつズラすか。

結局、2人はまだ彼女の死を受け入れ切っていないのだと思う。というのは、2人とも彼女と共に暮らしていた訳ではなかったらしいからだ。

身近な人が亡くなった、と言っても、例えば教室に居る時、例えば職場に居る時、その事自体が何か影響を及ぼす事はない。それが昼休みになって、いつもあった筈のお弁当がない事で"実感"したりする。せわしない生活の中ででも、すぐに影響が出るのが"一緒に暮らす"という事だ。今夜は家に帰っても、「ただいま」と言う相手が居ない…と。

そうでなかったらしい2人にとっては、そういった、地味だが逃れられない"局面"というものはなかなか訪れない。その、小さな小さな局面の積み重ねで人は人の死を受け入れていく。それを先行してみんな纏めて執り行うのが葬儀だが、形式は形式である。昨夏の件で、彼女の死をいちばん実感として受け止めたのは、報じられている通りならば同居していた男性だろう。もう彼の生活が一変してしまった筈だから。

何十年来の友人に久々に会った時でも、まるで時を経ていないかの如く振る舞えたりする。別に共に暮らしていなくても心は通じ合っているし、その人が亡くなったと知らされれば大いに悲しいだろう。それはそうだ。2人の悲しみは計り知れない。しかし、実感とはその話ではない。そこからは、逃れられないのだ。小さな現実の積み重ね。それがこれから出来るだろうか。その出来なさが積み重なると後悔に変わる。誰だって、生きているうちに会っておこう。繋がり合っておこう。人が居なくなった時に、悲しみが行き場所を見失ってしまわないように。




朝から湿っぽいなぁもう。